第2次世界大戦の戦時景気でカタギリ&カンパニーのみならずニューヨークの日系ビジネスは戦前の2倍の利益を上げた。既に1943年ごろから日系人強制収容所からの解放は徐々に始まっており、45年7月時点でニューヨークに移住した日系2世、3世(その多くは西海岸出身で財産や家屋を没収されていた)の数は3000人に近かった。またヨーロッパ戦線で果敢に戦った日系人兵士たちも続々帰国。祝福歓迎された彼らの中にはGIビル(復員軍人援護法)の恩恵でコロンビア大学やニューヨーク大学に進学する者も多かった。
コミュニティーに貢献
終戦と同時に予想外な勢いと豊かさを手にしたニューヨークの日系人社会だが、決して奢ることはなかった。空襲や原爆投下で壊滅状態だった故国日本への戦後復興支援にいち早くのり出したのだ。46年8月8日には日本救援ニューヨーク委員会が設立。募金活動や食糧、医薬品など緊急物資の寄付で相当の成果を上げた。このときの団結が母体となって戦時中活動が休止していた日本人会に代わる新しい日系人と日本人の統一団体が発足する。47年1月17日のことである。48から49年版の「紐育便覧」を見ると、その3カ月後に組織された同団体の準備委員にジョー片桐が名を連ねている。以後、カタギリ経営の傍ら、ジョーが戦後ニューヨークの日本人社会に貢献したことは疑いない。56年版「ニューヨーク便覧」では、ジョーは同会の理事に昇格している。
その後、玩具店(終戦直後は日本製のおもちゃがもてはやされた)やロングアイランド支店開設など順調にビジネスを拡大したカタギリは、戦前以上の人気を誇る。50年代から60年代の常連客には、小説家のジェームズ・ミッチェナー(「ハワイ」「南太平洋物語」ほか)、女優のシャーリー・マクレーン、ヨーコ・オノとジョン・レノン夫妻などセレブも少なくなかった。
誰よりも家族を愛する人
仕事熱心でコミュニティー意識も高く、敬虔なクリスチャンであったジョーは、一方で、何よりも家族を大切にする人だった。長女ノブコ=ジョーン、長男カズオ=ジョセフ、次女ミツコ=マーガレットは、自然豊かなコネティカット州で育ち、それぞれ免疫学者、植物学者、看護師として成功している。自身は父親の意志を尊重し、医者への夢を絶ってでも家業を継いだジョーだったが、子育てに関しては徹底して米国流を貫き、子どもたちの希望を尊重。家業を継げと強要することはなかった。
同社は78年、食品商社セントラル貿易の傘下に入り、現在はKCセントラル貿易株式会社の下で運営されている。カタギリの屋号だけはジョーのたっての願いで引き継がれた。
語学留学のために日本渡航途中の3女ミツコ=マーガレットと68年にハワイで出会い、翌年に結婚したアルビン・オナカ博士(現ハワイ州保健局公衆衛生登録官)は、晩年のジョーと共に過ごし最も近しい関係にあったが、こう語っている。「私が義父から学んだことは多々ありますが、最大の教訓は『家族を愛せ』ということでした」
111年間、変わらぬ笑顔
昨年、カタギリの2号店がグランドセントラル駅のそばにオープンした。ニューヨークの日本食ブームはとどまるところを知らず、市内では20軒近い専門店がしのぎを削っている。その中にあって創業111年のカタギリの店内には、独特の安らいだ空気が漂う。
「一番大切なのはお客様の長年にわたるご愛顧です。リクエストがあればどんな珍しい日本食品でも入荷するように心掛けています」と話すストアマネージャーの井上優美さんの笑顔が印象的だ。きっと、ジョー・カタギリもその先代たちも同じ笑顔で客と接していたに違いない。
(完)
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Katagiri & Co.
片桐智博、義雄兄弟が1907(明治40)年、Katagiri Brothersの屋号で創業。日本食品や日本製品の専門店として人気を博し、37年にはKatagiri & Co.に社名変更。戦前戦後を通じて片桐一族の家族経営でビジネスを拡大する。小売店業にとどまらず62年にセントラル貿易を設立。ニューヨークとロサンゼルスの両市に拠点を持ち、日本製品の米国輸入を手掛ける。2012年カメイ株式会社の100%子会社となり社名をKCセントラル貿易株式会社に変更。ニューヨーク市で最も歴史のある日本食品の卸、販売業者である。
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取材・文/中村英雄 映像ディレクター。ニューヨーク在住26年。人物、歴史、科学、スポーツ、音楽、医療など多彩な分野のドキュメンタリー番組を手掛ける。主な制作番組に「すばらしい世界旅行」(NTV)、「住めば地球」(朝日放送)、「ニューヨーカーズ」(NHK)、「報道ステーション」(テレビ朝日)、「プラス10」(BSジャパン)などがある。