前回に引き続き、ニューヨーク最古のレストラン「デルモニコス」誕生前史。ジョバンニとピエトロのデルモニコ兄弟(スイス出身)は、2万ドルの資金を持ってニューヨークへ返り咲くと、潔くアメリカ人になりきった。名前も英語読みのジョンとピーターに改名。そして1927年の12月13日、ウィリアムストリートの23番地にとりあえず菓子類を提供するシンプルなカフェを開く。屋号は「デルモニコ兄弟社」。このとき、本来あったデルとモニコの間の「中黒」も消えた。
全米初のメニュー式レストラン
カフェは開店と同時に爆発的人気を博す。理由はいくつかあるが、①コーヒーも菓子も一流品をそろえる②給仕方法から店の内装まで徹底的にこだわる③店主の妻が店先に出てサービスする(当時、まだ女性がカフェ店頭に出て働くことはなかった)など、どれも今日のニューヨーク料飲ビジネスでも通用する「成功の秘訣」を先駆けて取り入れていた。客筋はほとんど男性だったが、地元の商人と蒸気貨物船でヨーロッパから毎日のように渡ってくる貿易商たちで、こうした国際性が店の高級なイメージ作りに貢献した。
兄弟は29年に隣接する25番地の物件も借り上げ、30年には旧店と合わせて菓子と料理を共に提供する店に拡張。全米初の一般人向け公共食堂となる。独立間もない新興国アメリカである。上流も下流も国民はほぼ全員「うち食べ(家庭料理)」が主流。レストランは皆無で、カフェやタバーン(居酒屋)や旅籠でわずかに食事が出る程度だった。それも、飲み物の付随物(つまみ)または宿泊サービスの一部でしかなく、客が自由に選べるような料理はなかった。
そこにデルモニコスが単独、本場ヨーロッパ調のレストランで打って出たものだから話題をさらったのは当然である。同店は世界のレストラン史上重要な発明や改革をいくつも残しているが、サービス面で特筆すべきは、「メニュー(献立)」導入である。既にパリでは定着していた「カルト(英語で言うとbill of fare)」のシステム、つまり紙に書かれた数ある料理の選択肢の中からお客が気に入った品々を自由に選べる方式を、デルモニコスはこの時アメリカで初めて取り入れたのである。
故郷スイスの家族に援護要請
おかげで客は、旅籠で出ていたお仕着せの「定食」から解放され、好きな時間に好きな予算で好きな料理が食べられるようになった。マンハッタン南端の港湾地区で働く忙しい商人がこれを喜ばないはずはない。あっという間にデルモニコスを真似た「レストラン」がそこら中に誕生し、アメリカの食事の新しいスタンダードとなる。
同店のメニューに並ぶ日替わり、月替わりの新しい料理は、街の話題となり、それらを求めて客は列を成した。食材にも、ナス、チコリ、アーティチョークなど今まで見たこともないような珍しいフランス野菜がどんどん紹介され、ニューヨーカーの舌はみるみる肥えていった。こうした料飲市場の拡大パターンは、最近のニューヨークと驚くほど似ている。
食事の内容がレベルアップするに従い、厨房はピーター(菓子職人出身)1人の手には負えなくなり、フランス人のシェフを起用するようになる。31年の夏になると、経営面でも手が足りなくなり、兄弟は故郷スイスに残るもう1人の弟フランシスコに助けを求める。新天地で困ったときに頼れるのは、やはり身内だ。フランシスコは、息子ロレンゾをデルモニコビジネスの援護要員としてニューヨークに送り出すことに渋々承知した。
同年9月1日、ロレンゾがローワーマンハッタンの船着場に上陸する。弱冠19歳。金髪を潮風になびかせた紅顔のこの青年が、この後40年にわたりデルモニコスの運命と名声を決定づけようとは、誰も予測しなかった。 (つづく)
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Delmonico’s Restaurant
創業1837年、リンカーン大統領や文豪マーク・トウェイン、チャールズ・ディケンズも愛した名店。デルモニコステーキをはじめ、エッグベネディクト、ベイクドアラスカなど数々の有名料理を生み出した。メニューに「アラカルト」やワインリストを初めて導入したのも同店だ。支店を持たないため、ニューヨークでしかここの料理は食べられない。
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取材・文/中村英雄 映像ディレクター。ニューヨーク在住26年。人物、歴史、科学、スポーツ、音楽、医療など多彩な分野のドキュメンタリー番組を手掛ける。主な制作番組に「すばらしい世界旅行」(NTV)、「住めば地球」(朝日放送)、「ニューヨーカーズ」(NHK)、「報道ステーション」(テレビ朝日)、「プラス10」(BSジャパン)などがある。