「おかえり」
その夜、家に着くと母が迎えてくれた。
「ただいま」
「ご飯、用意してあるよ」
「へぇ、今回はあるんだね」
期待しなかったぶん嬉しかった。帰って早々に変な挨拶かもしれないが、これにはわけがある。それはかつて15年ぶりに日本へやって来たときのこと。ほんの数日だけ実家に寄ることになり、積もる想いで家路を急ぎ、久しぶりの母の手料理を楽しみに腹を空かせて実家へ着いた。しかし、食卓に食べるものは用意されていなかった。その上「なんで食べて来なかったの」なるセリフまで。長い月日の間ですっかり薄情になったのか、それともボケてしまったのか。少なくとも後者ではなかったようだった。
そんなことがあり今回は途中で食べて行こうとあちこち店の前で足を止めた。しかしその反面、もし前回のことを気にして母が一品でも料理していたら、せっかくの好意を無駄にしてしまうことになる。「食べて帰るか、食べずに帰るか」、入国してからの家路はずっと考え込んでいた。そして結局どうしたかといえば、いい匂いの漂ううなぎ屋も目移りする寿司屋も振り切り、今回もまた腹を空かせて実家に帰ってきた。もし万が一、母が料理をして帰りを待っているとしたら、その好意を無駄にしてはいけないという結論に達したのだ。
「キンピラ、作っといたからね」
「へぇ、進歩したじゃない」
ニヤニヤしているぼくを見ながら
「あんた、うるさいからねぇ」
と母。そうかもしれない。
「15年ぶりに帰ってきた息子に、食べるものないってのもさぁ…」
もともと料理好きではない年老いた母にとって、食事を作るというのはよほど億劫なことらしい。
「面倒なんだよねぇ」
「料理はボケ防止になるってよ」
「いいわもう、いつボケても」
何だかんだ言いつつ、家に帰って母の手料理を食べることほど嬉しいことはない。それにこうして元気でいることに何よりも安堵した。一緒に食べる夕食はたとえご馳走ではなくてもこの上なく美味しかった。
「父ちゃんは?」
「相変わらずだよ」
父は認知症がひどくなってからもう何年も病院で寝たきりになっている。
「見舞いに行かなきゃ」
「そうだね」
「そういえば、その袋なに?」
不自然に置いてある紙袋の中にスリッパやタオルらしきものが入っているのが見えた。
「旅行でも行くの?」
「…ん、まあ、落ち着いたら話すから」
「ふーん」
ぼくは素っ気ないふりをしてお風呂へ入りに立ち上がった。そして久しぶりの深い浴槽に肩まで浸かり、ともあれゆっくりと体を温めた。
つづく
Jay
シェフ、ホリスティック・ヘルス・コーチ。蕎麦、フレンチ、懐石、インド料理シェフなどの経験を活かし「食と健康の未来」を追求しながら「食と文化のつながり」を探求する。2018年にニューヨークから日本へ拠点を移す。