夏休みが終わって今週から学生たちは学校に戻った(編集部註:本記事の初出は8月28日)。この夏を振り返ってみると、気温35度越えの酷暑はもちろんだが、酷暑のなかで行われた高校野球(甲子園)がなんといってもいちばんの出来事だったのではないだろうか?
いまだに「金農ロス」は続き、メディアは準優勝した金足農業とヒーローとなった吉田輝星投手の動向を伝えている。
しかしなぜ私たち日本人は、こうした甲子園球児たちの「一生懸命頑張る」姿に感動・感涙してしまうのだろうか? あまりの酷使に「虐待ではないか」「投球制限を導入しろ」などと批判の声が出るなか、日本特有ともいえるこの文化について考えてみる。
横浜を破った金足農業を全力応援
甲子園は、ある意味で日本では美徳とされる「一生懸命頑張る」ことを実践する場だ。球児たちは、ともかくひたすら白球を追い、心と体の限界まで頑張り抜く。今回の100回記念大会は、それがもろに出た大会で、それを象徴したのが秋田県代表の金足農業と吉田輝星投手だった。
私も甲子園ファンだから、時間があれば試合中継を見る。今回、神奈川県は記念大会ということで北と南に分かれ、北は慶応義塾高校が、南は横浜高校の2校が出場したが、どちらも横浜市内の高校なので毎試合欠かさず見た。慶応はともかくとして、横浜は優勝候補の一角だった。今回、2度目の春夏連覇した大阪桐蔭ともいい勝負になると評価されていた。
それが、横浜高校は3回戦で、金足農業に逆転負けした。はっきり言って、金足農業など下馬評にも上がっていなかったから、試合前から私は、横浜の楽勝だと思っていた。実際、八回裏まで4対2で、横浜はエースの板川が投げていたので負けようがなかった。それが、1死一、二塁から6番高橋内野手に逆転3ランを浴びて、終わってしまった。このとき、テレビを見ていた私は思わず「まさか」と声が出て、その後、呆然自失となった。あとで知ったが、ホームランを打った高橋内野手は、これが高校生活で初のホームランだったという。
これが甲子園、まさに甲子園であり、以後、私は気持ちを金足農業に切り替えて、全力応援で野球中継を見た。そうして、決勝戦。もう限界に達した吉田投手が、大阪桐蔭打線にメッタ打ちにされて立ち尽くす姿に、思わず涙があふれた。試合後、本人は「四回くらいから足が動かなくなった」と言い、マウンド上で初めて同僚に「もう投げられない」と告げたという。
エース1人で全員一丸が“お手本”か?
決勝戦後の閉会式。高野連の八田英二会長の次の発言が、“炎上”した。
「秋田大会から1人でマウンドを守る吉田投手を、他の選手が盛り立てる姿は、目標に向かって全員が一丸となる、高校野球のお手本のようなチームでした」
高校野球を「教育の一環」であるとし、常に全力でプレーすることを標榜する高野連の会長は、本気でこう思っているのは間違いない。しかし、それはこの時代通用しない。
「エース1人を酷使させることをお手本のようなって表現するのは違う」
「酷使を高校野球のお手本と公に発言しちゃいかん」
「1人で投げきるのが高校野球のお手本?それは違う」
「高校野球のお手本じゃなくて前時代的な理想だろ」
このような批判は、当然であろう。このときは、私もそう思った。実際、吉田投手は、秋田県大会から甲子園準決勝までの全試合を完投し、それまで約1400球を投じていた。決勝戦で投げた132球を加えると、軽く1500球を超える。しかも、炎天下、ほぼ連日、投げ抜いてきた。さらに、金足農業は、9人の選手だけで決勝までの6試合を戦っていた。“雑草軍団”と呼ばれたが、まさに1人のエースが中心で、吉田投手がいなければ成り立たないチームだった。
したがって、橋下徹・前大阪市長がツイッターで、「大阪桐蔭と金足農業のメンバーには敬意」と前置きした後、「しかし金足農業の吉田選手を美談で終わらす間は、日本のスポーツ界に未来はない」と述べたのも、たしかにそのとおりだと思った。これでは、投球制限、試合日程の変更など、改善していくほかないどろうとも思った。
投球制限すると私立優位で野球自体も変わる
しかし、この考えは1日で消えた。私は、甲子園はいまのままでいいと思うようになった。
それは、ルールを変更して甲子園のあり方が変わってしまうと、大げさに言うと、甲子園が日本文化ではなくなってしまうからだ。
甲子園は甲子園のままでいい。勝手かもしれないし、将来ある選手たちには悪いかもしれない。しかし、甲子園はどうしても甲子園でなければいけないのだ。
甲子園を改革しようとする多くの識者が提案するのが、投球制限である。その理由は、このまま放っておくと、将来有望な選手たちはほとんどが潰れてしまう。アメリカでは虐待に等しいとされていることを、これ以上続けるべきでないというのだ。たとえば、WBCのルールを持ち出して、これを提案する識者がいる。要するにアメリカのようにしろと言うのである。
しかし、たとえば100球とした場合、甲子園を目指すためには、投手が最低3人は必要になるだろう。となると、そうできない公立校などは不利になり、有力選手をかき集める力のある私立の有力校だけの甲子園になる。また、相手投手にできるだけたくさん投げさせようとするために、野球のやり方自体も変わってしまうだろう。
こう考えると、そもそも、公立、私立があるうえ、規模(生徒数)も形態(進学高、工業高校など)も違う全国の高校の野球部をすべて参加させること自体がおかしいのだ。
(つづく)
【山田順】
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。
2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。
主な著書に「TBSザ・検証」(1996)「出版大崩壊」(2011)「資産フライト」(2011)「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)など。翻訳書に「ロシアンゴッドファーザー」(1991)。近著に、「円安亡国」(2015 文春新書)。
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