連載148 山田順の「週刊:未来地図」 甲子園は変わるべきなのか?(中) 「一生懸命頑張る」日本文化を捨ててはいけない

アメリカの高校野球は日本とまったく違う

 アメリカには、甲子園のような全国大会(ほかのスポーツも含めて)がない。それは、まず州単位が基本だからで、そのうえディビジョン分けされており、そのなかでリーグ分けがあるからだ。そもそもまったく条件が違う学校がいっしょに参加できるということが、フェアでないと考えられている。

 たとえば、AからDにクラス分けされていて、Aクラスなら生徒数500人以上の学校、Dクラスなら生徒数150人以下の学校というようになっている。そのため、AクラスならAクラスの学校同士が戦う。こうしないと、常に母数の生徒数が多い高校が勝つことになってしまうからだ。また、トーナメント形式よりリーグ戦が主体で、学生スポーツで一発勝負のトーナメント戦があること自体が珍しい。
 したがって、ここまでスポーツ文化が違うのに、投球制限というアメリカ方式だけを導入すれば解決すると考えるのはどうかしている。もちろん、将来のために肩を使いすぎないようにする配慮は必要だ。しかし、それを甲子園の参加チームに課してはいけない。各校にまかせればいいのではないだろうか。

真夏に甲子園でやるから意味がある

 次に、なんで真夏のこの時期、炎天下に開催するのか?しかも、過密日程を組むのか?という問題がある。これは確かにそのとおりで、日本の真夏の炎天下の試合ほど、選手たちにとって酷な試合はないだろう。しかも、過密日程である。現状の日程では、引き分け再試合や雨天中止が続くと、最後は3連戦、4連戦となってしまう。となると、エース1人なら連投に次ぐ連投となる。
 これは地方大会でも同じだ。それで、球数制限よりも日程改善をまずすべきだという意見がある。たとえば、3回戦終了→休み→準々決勝4試合→休み→準決勝→休み→決勝のようにすれば大会期間は2日長くなるが、少なくとも連投負担は防げるというのだ。
 たしかにそのとおりだから、私もこれには賛成である。しかし、真夏開催をやめて春に1本化する、炎天下を防ぐため、甲子園をやめてドーム球場に移すなどという案には、賛成しかねる。
 なぜなら、選手権大会は真夏に甲子園でやるから、意味があるのだ。もしほかの季節にほかの球場でやれば、それはただの選手権大会である。真夏開催ということは、選手はみな汗だくになり、汗と土にまみれて戦うということだ。この姿が甲子園であり、そうでなかったら、それは甲子園ではない。
 甲子園というと、一糸乱れぬ入場行進、選手宣誓、全員丸刈り、滑り込みで汚れたユニフォーム、深々としたお辞儀、全力疾走、名物監督、校歌斉唱など、まったく時代錯誤としか言いようがないアイテムで満ち満ちている。
 これが気に入らない、生理的にイヤだという人々がいる。かつて私もこうしたものすべてがあまり好きではなかった。スポーツなら、もっと合理的に、もっと科学的にやればいいと思っていた。だから、親戚の子が名門高校の野球部に入り、丸刈りにさせられたことに腹を立てたものだ。しかし、その理由を教師に聞いてみて納得した。
 「うちの学校では、本音を言うと髪型なんてどうでもいんです。いまの子供たちですから、好きなヘアスタイルでかまわないんです。プレーに影響しませんからね。ただ、五分刈り頭じゃないと、審判の心象が悪くて、判定が不利になるんです。また、全力疾走しないと、注意してくる審判もいるので、そうせざるを得ないんです」
 (つづく)

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【山田順】
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。
2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。
主な著書に「TBSザ・検証」(1996)「出版大崩壊」(2011)「資産フライト」(2011)「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)など。翻訳書に「ロシアンゴッドファーザー」(1991)。近著に、「円安亡国」(2015 文春新書)。

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