百年都市ニューヨーク 第31回 創業1818年 ブルックスブラザーズ(下)

 創業者ヘンリーの時代から業務の一環であったブルックスブラザーズ(以下「ブルックス」)の軍服製造は、息子たちの代に入ると米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争、1846〜48年)で兵士の制服を大量受注するなどビジネス拡張を後押しした。そればかりか軍服や戦闘服はこの会社の紳士服の基本である優れた機能性と洗練されたスタイルの原点にもなっている。しかし、戦場はビジネスとは違い人間の血が流れ、内臓が破裂し、肉片が飛び散る修羅場である。見方を変えれば、250年近い米国戦争史の中でどれだけの尊い命がブルックスの軍服に包まれて散っていったことか。そして、第16代大統領リンカーンが凶弾に倒れたときに着ていたフロックコートもブルックス製だった。

トランプ氏が大統領就任式で着用したブルックスのコート。メディアを敵視するトランプ氏のポケットには新聞の切り抜きは入っていなかっただろう

 

血染の裏地に合衆国統一の理想

エイブラハム・リンカーン(1809〜65年)は、米国初の共和党所属の大統領だ。奴隷制か工業化かで合衆国を2分した南北戦争(1861〜65年)で合衆国軍(北軍)を指揮し、類稀なるリーダーシップで国家を統制。黒人奴隷制度に終止符を打ち、4年間に及ぶ長い内戦を終結させた。
ところが終戦後間もない1865年4月14日。ワシントンDCのフォード劇場で家族や側近と喜劇を観劇中に至近距離から反動勢力のジョン・W・ブースに拳銃で後頭部を狙撃され、翌朝、息を引き取った。悲劇の夜にリンカーンが着用していたフロックコートは、同年3月4日に行われた第2期目の大統領就任式のためにブルックスで特別に誂えたものだった。裏地には1羽の鷹がくちばしで旗を咥えた複雑な模様の刺繍があしらわれており「One Country, One Destiny(ひとつの国、ひとつの運命)」と縫い取られている。リンカーンが尊敬してやまなかった先輩政治家、上院議員のダニエル・ウェブスターが1837年に残した演説の一節だ。
事件の後、リンカーンの遺族はこのコートを故人お気に入りのドアマン、アルフォンス・ドンに譲る。その後、ドン一家は100年以上もの間、このコートを大切に保管していた。とはいえ米国史に残る貴重なコートである。客人が来るたびに、「記念に」とリンカーンの血糊で汚れた裏地は少しずつ切り取られ、最後には袖が落ちるまで傷みきっていた。

東京の文化学園服飾博物館で開催中のブルックスブラザーズ展(11月30日まで)に展示されているリンカーン大統領のフロックコートのレプリカ(撮影協力:ブルックスブラザーズ・ジャパン)

大統領たちのブルックス

見かねた米国立公園局は1990年、ブルックスの縫製職人に修復を依頼。博物館学芸員や布地保存の専門家も動員し、延べ360時間という膨大な手間暇をかけた末、フロックコートは見事に蘇った。その成果はフォード劇場の史料室で鑑賞できる。余談になるが、コートのポケットの中身も合衆国国会図書館に保存されている。
そのとき、リンカーンが持っていたのは、メガネ2つ(近視と老眼用か? リンカーンは斜視で常に眼に問題を抱えていた)、メガネのネジを直すための小ナイフ、南部政府発行の新品の5ドル札、(終戦間際、南部リッチモンドを訪問した際のお土産か?)、新聞記事の切り抜き8枚とのこと。
リンカーンにとって戦争の終結と2回目の選挙は大変な困苦で、新聞記事はいずれも第2期リンカーン政権の行方を肯定的に評価したものだったという。当時、精神的に疲労困憊していた大統領にとっては密やかな心の支えだったのかもしれない。
現在、東京を巡回中の「ブルックスブラザーズ展」でこの運命のフロックコートのレプリカが裏地の写しとともに展示されているのでこの機会に見ておくといい。いま着てもおかしくない端正なデザインに見入るだに、歴史はそう遠くないことを身にしみて感じる。
ブルックスを愛した大統領はリンカーンだけではない、歴代大統領45人のうち40人がブルックスを着ている。2008年には初の黒人大統領、バラック・オバマが就任式にブルックスを着るのではとファッション誌WWDで話題になったが、予想より略式ながらもブルックスのコートとスカーフで颯爽と式典に登場した。
ちなみに、2017年1月。オバマ氏が任期を終えて現大統領にバトンタッチしたときドナルド・トランプが着用していたのもブルックスのコートである。その裏地にどんな縫取りがあったのか? 今となっては余計な想像をしないではいられない。
(つづく)

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Brooks Brothers
1818年創業の米国最古の衣料品メーカー。No1サックスーツ、ボタンダウンシャツ、ポロスーツなど同社が生み出したスタイルは紳士服の歴史に革新的な影響を与えてきた。歴代の大統領に愛用され、フレッド・アステアのダンス映画から最近の「華麗なるギャツビー」までハリウッド映画でも多数起用されるなど、米国服飾界のスタンダードとなっている。マジソン街本店を中心に米国内では210店舗を展開(2015年現在)。日本では1979年に海外店舗第1号店として東京に青山店をオープン、現在75拠点80店舗を展開中。
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取材・文/中村英雄 映像ディレクター。ニューヨーク在住26年。人物、歴史、科学、スポーツ、音楽、医療など多彩な分野のドキュメンタリー番組を手掛ける。主な制作番組に「すばらしい世界旅行」(NTV)、「住めば地球」(朝日放送)、「ニューヨーカーズ」(NHK)、「報道ステーション」(テレビ朝日)、「プラス10」(BSジャパン)などがある。