「ちょっと休むわ」
「ゆっくりでいいからね」
毎朝のように友達と釣りをした小学校の夏休み、ススキに囲まれた池の隣の急な坂道をぼくらは勢いよく自転車で駆け下りた。まるでスキーのジャンプ台のような坂。日本の再スタートは思い出の詰まったこの辺りを母と一緒に散歩することから始まった。
「手術は1ヵ月後に行います。健康状態は良好のようですが、お歳なので、なるべく体力をつけておいてください」
術前の検査の結果、幸いにも母の乳がんは非常に初期のもので摘出すればまず完治は間違いない。ドクターの言葉に少なからず安堵した。ただし体力はできるだけつけておこうと、毎日の散歩を日課とした。
「ここはねぇ、よく登ったんだよ」
昔からとても健脚の母。本人もご自慢の脚は何十年という間、丘の上にある実家まで毎日欠かすことなく歩いて買い物を続けてきた賜物。ティーンエイジャーの底なしの食欲を支えたのもこの健脚あってのことだ。
「急がなくていいからね」
しかし、さすがにこの急な坂を一気に登ることはキツくなったようだった。母はひと休み、またひと休みしては坂の上を目指した。そのご褒美は頂上から見渡せる景色。
「あーよく見えるねぇ」
「うん、綺麗だねぇ」
「あの池はよく釣りしたなぁ」
眼下に広がる池もすっかり整備され周りには散歩路もできた。住宅もずいぶん増えた。そしてだんだんと月も満ちてきたその日。たまには夕飯を終えてから散歩に出掛けることにした。
「暗いから足下には気をつけてよ」
のんびりでも頂上まで登ると息が切れる。ぼくは深呼吸をしながらゆっくり登ってくる母を見守った。そしていつもならひと休みする所まで来た母。しかしこの日はそのまま止まらずに歩き続けた。もしかして、そう見守っている間に母はさらに登ってきた。上に行くほど急になる坂。その急坂をピンク色のNYキャップがどんどん近づいてきた。
“Wow, she might be able…”
感心している間に母はひょこひょこと登り切ってしまった。
「休まず登れたねぇ」
「ほんと、下を向いてる方が楽に登れたよ」
なるほど、これは人生にだって当てはまりそう。青空ばかり見上げていられるほど生きることは平坦ではない。坂道に差し掛かったら足元を見ながら歩き続けることも大切だ。下を向いてただただひたすらに。そしてふと立ち止まったとき、そこにはきっと…。
「ほら後ろ見て」
母は今まで自分の脚で登ってきた坂道を振り返った。
「うわー満月、おっきいねぇ」
つづく
Jay
シェフ、ホリスティック・ヘルス・コーチ。蕎麦、フレンチ、懐石、インド料理シェフなどの経験を活かし「食と健康の未来」を追求しながら「食と文化のつながり」を探求する。2018年にニューヨークから日本へ拠点を移す。
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