連載187 山田順の「週刊:未来地図」 2019年の世界はどうなる?(2の中) 米中戦争の主戦場は「関税」から「半導体&5G」、そして最終的に「金融&通貨」へ!

香港HSBCを通じての取引が意味するところ

 中国政府は今回のファーウェイのCFOの逮捕に激しく反発している。しかし、彼女の逮捕容疑は、「金融詐欺」である。アメリカの報道によれば、米司法当局はファーウェイが香港のペーパーカンパニー「SkyCom」(スカイコム)を使ってイランの通信会社と取引したことを制裁措置違反と指摘したところ、虚偽の報告をしてきたことが原因としている。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによれば、スカイコムはHSBCの口座を通して違法取引をしていたという。
 ここでHSBCの名前が出たことに、私は改めて驚いた。日本のメディアはほとんど指摘していないが、これで言えることは、アメリカは世界中の銀行の取引口座情報を自由に見ることができるということだ。
 すでにアメリカは、2013年に施行されたFATCA(ファトカ:Foreign Account Tax Compliance Act:外国口座税務コンプライアンス法)により、アメリカに納税義務のある個人または法人の銀行口座を開示させることができるようになっている。さらに、これに2017年からCRS(Common Reporting Standard:共通報告基準)が加わり、国際税務協定により、CRS参加国に所在する金融機関は、管理する金融口座から税務上の非居住者を特定し、当該口座情報を自国の税務当局に報告する義務が生じた。この情報は各国の税務当局間で相互に共有されるので、アメリカは事実上、世界のあらゆる金融取引の実態を知ることができるのだ。
 なぜ、こんなことがわかっていながら、ファーウェイはHSBCを通じてイラン企業と取引をしたのだろうか? 余談だが、日本の検察に逮捕されたカルロス・ゴーン日産元会長は、オランダに設立したSPC(Special Purpose Company:特的目的会社)を通して、個人別荘などを購入していた。このような取引も、アメリカの金融当局はすべて把握できていると言っていい。
 この後にふれるが、これこそがアメリカの最大の武器であり、米中新冷戦は、最終的に金融面での争いになるのは間違いない。

子会社製造の半導体を他社には提供していない

 もう多くのメディアで指摘されているように、アメリカの直近の目標は、「中国製造2025」潰しである。「中国製造2025」は、次世代情報技術や次世代エネルギーなどの先端産業において覇権を確立することだから、ZTEやファーウェイがアメリカの攻撃ターゲットになるのは自明だったといえる。
 これもすでに報道され尽くされているが、ファーウェイは、中国のハイテクの中心、広東省深圳市にある従業員18万人を超える大企業だが、創業時は資金もなく人員もほとんどいなかった。しかし、創業者の任正非が人民解放軍の出身だったので、北京との結びつきで大発展したとされている。 
 そのため、アメリカはファーウェイが米国市場に進出した2000年以降、監視を続けてきた。そして、2012年、議会はそれまで監視した報告書をまとめ、ファーウェイとZTEが、アメリカの安全保障への脅威であると主張し、アメリカ企業にその製品を使用しないよう促している。
 もちろん、ファーウェイ側はこれまでアメリカによる疑惑を全面否定してきた。というのは、ファーウェイは半導体を独自で開発する子会社「ハイシリコン」(HiSilicon Technologies)を2004年に設立し、そこで開発した半導体を使用してきており、これをほかの中国メーカーには提供していないからだ。
 北京としては「中国製造2025」を完遂するためには、中国独自で開発・製造した半導体が必要である。それをファーウェイは製造しているにもかかわらず、中国の代表的なスマホ、ZTE(ジーティーイー)、OPPO(オッポ)、vivo(ヴィボ)、Xiaomi(シャオミ)に提供していない。
 そのため、アメリカの世界一の半導体メーカーであるクアルコム(Qualcomm)から半導体の提供を受けていたZTEは、今年の8月の取引停止措置によりスマホ製造ができなくなってしまった。
 要するにファーウェイは、北京の指導・命令を聞かないと言いたいのである。しかし、これはファーウェイの競争戦略であって、なにかあれば北京のコントロール下に入るのは間違いないだろう。これは、中国企業の宿命だ。
 普通に考えても、アメリカですら、グーグルやアップルは、ネットで集めたデータを連邦政府の国防機関が提供を求めれば提供せざるを得なくなっている。どうして、中国企業がそれをしないと言い切れるだろうか?
(つづく)

【山田順】
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。