本コラムでは2017年の連載開始以来、生き馬の目を抜くニューヨークで1世紀以上続く老舗を取り上げ、その生き残りの秘密について考察してきた。今週からは第2部として、この街の知られざる歴史的側面に迫る。
ニューヨークの近代史をつぶさに見ると、所々で日本と意外なつながりがあるのが分かり興味深い。初の遣米使節団(1860年)の行進を名詩に謳ったウォルト・ホイットマン(1819〜92年)や第26代大統領セオドア・ルーズベルト(1858〜1919年、1905年日露戦争後の講和会議で調停役)をはじめ、日本の近代化にゆかりのあるニューヨーカーは枚挙にいとまがない。なかでも日本にとっての「MVP」ニューヨーカーといえば、日米友好通商条約に調印をした初代の駐日米国総領事タウンゼンド・ハリス(1804〜78年)だろう。異教の日本で2年近くも粘って江戸幕府と開国交渉をしたハリスとは、一体どんな人物だったのか? その足跡は今でも市内の一部に残る。
生まれはニューヨーク州北部
本コラムでも繰り返し書いてきたが、ニューヨーク(そして米国と世界)の発展を知るうえで、ハリスが生きた19世紀という時代は極めて重要だ。欧州で燃え上がった産業革命はあっという間に新大陸に飛び火。蒸気機関が馬力に取って代わられ、長距離輸送能力が数十倍アップ。石炭・石油がエネルギー源の中心となり、照明でいえば鯨油も植物油もガス灯や電灯の前にあえなく消滅した。電信、電話、高層建築、巨大橋梁…、近代アイテムの全てが1800年代に生まれている。
19世紀前半、合衆国独立からわずか30年ほどでニューヨークは早くも全米一の港湾都市になっていた。世界各国から米国に上陸する「人・もの・カネ」の入り口となり、鉄道、道路、通信、河川交通の全インフラがこの街に集中。ロンドンやパリを超える(今風にいえば)グローバルな活気に満ちあふれていた。
ハリスは市内から330キロ離れたアップステートの小村サンディヒル(現ハドソンフォールズ)に1804年に生まれた。先祖はウェールズから自由を求めて渡って来た移民で、祖父は独立戦争で英国軍と果敢に戦った。父親ジョナサンは村で帽子屋を営みながら村長を務めるなど政治意識の高い人。母親エリノアは教養が高く学校で教鞭を取ったこともあるリベラルな女性だった。
しかし、家は貧しく零細の帽子業は工業化の波に押されあっけなく廃業。1818年、今から201年前、ハリスは中学校を卒業するとすぐに兄ジョーンの陶器業を手伝うために14歳でニューヨークに出る。その2年後には兄がパールストリート83番地に構えた輸入陶器の卸し兼小売店の経営を任される。兄がもっぱら英国など欧州への買い付けを、人当たりの良いタウンゼンドはセールスを担当し、商売は上げ潮に。同店舗の所在番地は今もローワーマンハッタンに残っている。
当時の輸入陶器業は今で言うならブランドバッグ輸入業のような花形国際ビジネスだった。タウンゼンドは、外国未経験なるも、暇をみては図書館に通いフランス語、イタリア語、スペイン語を独学で学んだ。おかげで店前の通りを隔てた波止場に集う世界各国の商人や船員たちと活発に交流ができ、早くから国際情勢や海外事情に明るかった。正規の大学教育を受けなかったハリスが後に外交官にまで推された理由はここにある 。
陶器ビジネスから教育者へ
両親の影響で自由な考え方を身につけ、しかも常に社会貢献を念頭に行動していたハリスは、消防団や国民軍に積極的に参加し、政治意識も高かった。ニューヨークの多様性が彼の進歩主義を後押ししたことは想像に難くない。尊敬する人物は、「建国の父」の1人、ベンジャミン・フランクリン(1706〜90年)だった。フランクリンは、米ドル紙幣(100ドル札なのであまりお目にかからないが)に描かれているほどの米国史に残る大人物。政治家、思想家で、「雷が電気である事実」をたこを使った実験で証明した科学者でもあった。フランクリンの米国らしい合理主義や民主主義がハリスの生き方の根底にあったことは看過できない。
とりわけハリスが惹かれたのはフランクリンの教育者としての側面だった。1740年代当時、ペンシルベニア州に大学がないのを憂いたフランクリンは大衆を説得して自ら寄付を集めフィラデルフィアアカデミー(のちのペンシルベニア大学)を創立している。
「これこそライフワークだ!」生来の子ども好きで青少年の教育について日ごろから母親と論議を戦わせていたハリスにとって、もはや陶器業は興味の対象ではなかった。1830年代後半から彼の情熱は学校作りに向かうことになる。
(つづく)