ブルックリンのダンボ地区は今や一大観光地と化している。中でも最も「インスタ映え」するスポットはワシントンストリートだ。映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)のポスターで一躍有名になった同ストリートから見通すマンハッタン橋をバックに毎日、数千人の男女が路上でポーズを取っている。実は100年以上前、同じ通りに日本人医師が診療所を構えていた。
船員となって渡米
熊本県出身の高見豊彦(1875〜1945年)は、米国で初めて開業した日本人医師である。10代のころに宣教師や新島襄(アマースト大学に留学。同志社大学の祖)の話に感動して米国留学を決意した豊彦は、15歳で家出同然に関西に出て船員の修業の後、1891年3月に神戸から英国船に職を得てシンガポール、イスタンブール、英国を経て同年10月に建立間もない「自由の女神」が迎えるニューヨークに到着した。
豊彦の自叙伝「輝ける星」によると、その足でブルックリン橋を渡り、ネイビーヤードの近くのサンドストリートでスズキという日本人経営の下宿屋に転がり込み、日本食を食べている。信じ難い話だが、当時すでにブルックリンのこの辺りには船員を中心とする日本人のコミュニティーがあったのだ。しかし、粗暴で酒飲みで英語も解さない彼らとの共同生活に嫌気がさした豊彦は、語学の鍛錬のために米国の軍艦の皿洗いとして再就職。持ち前の勤勉さで調理の腕も上げ1年半で料理主任に昇格した。給料も月45ドルと当時の外国人ティーンエイジャーにしては破格だった。
聖書に興味を覚えていた豊彦は、艦長の勧めで、ブルックリンのフルトンストリートに住むナンシー・E・キャムベル女史を紹介される。豊彦の勉学への情熱に心動かされた女史は、日曜学校に招き入れ、英語の個人教授の手配もしてくれた。おかげで語学力はみるみる上達。洗礼を受けるほど信仰も厚くなった豊彦は、いよいよ本格的に現地の学校に通い始める。1893年、周囲の猛反対を振り切り豊彦は陸に上がることになる。
病院船に乗る
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病院船「ヘレン・ジュリアード号」。ジュリアードとは、音楽学校の名前にもなっている有名な篤志家。19世紀に乾物業で巨万の富を蓄えた(写真協力:thefloatinghospital.org)
最初に進んだマサチューセッツ州のクシング高校で苦学中に先輩日本人学生から学資稼ぎにと紹介されたのが、ニューヨークの病院船の仕事だった。豊彦は軍艦勤務が評価され、即座に料理長として採用される。
この病院船の発足は1866年。19世紀後半、ニューヨークの労働者街は貧困の極みで生活環境も劣悪。夏ともなると伝染病で何万人もの子どもたちが死んでいった。惨状を見かねた教会団体、聖ジョンズギルドが、せめて夏休みだけでも子どもたちを無料で船に招き、ニューヨーク湾内を航行しながら病気の子は診療し、健康な子たちには楽しく遊んでもらおうと始めた慈善活動がこの病院船である。ニューヨークタイムズの呼び掛けもあり、富裕層の中にも賛同者が多く(本コラム第46回で紹介したコーヒー王のジョン・アーバックルもその1人)、豊彦が勤務したころには、すでに定着した存在だった。聖書の教えである「恵まれない人たちの福祉に貢献する」活動に豊彦は心身ともに没頭。これが、医学の道を目指すきっかけとなった。
その後、豊彦はキャムベル女史の経済・精神両面での不断の援助に支えられ2つの高校を優秀な成績で卒業。女史は当初、神学校進学を強く勧めたが、豊彦はきっぱりとこう答えている。
「聖職に就いて、その衣を身に纏ったり、或いは必ずしも聖壇から基督の道を説く必要はない。私はいつもぜひ医者になりたいと思っていた。医術そのものは実に尊い業だ。尚、私は自分の日常生活様式や行為を通じて、一生福音を伝えるものである」
高見豊彦自叙伝「輝ける星」より
コーネル大学医学科で4年間学び1906年、21歳で卒業後はベルビュー病院でインターンとして勤務する。インターン中に医師免許を取得すると、すかさずブルックリンのハイストリート182番地で開業。こうして米国で初の日本人開業医が誕生した。
しかし、豊彦が選んだエリアは当時の貧民街のど真ん中。まだマンハッタン橋も建設中で、肉体労働者や移民が肩寄せ合って暮らしていた。「この人々こそ私が助力を与えねばならぬのだ。また、私が十分奉仕し得る人々である」と自叙伝にはある。
1916年に冒頭のワシントンストリート176番地に診療所兼住宅を購入した豊彦は、主に貧困層や恵まれない在留邦人の医療に尽力。その後の日本人医師の米国での活動に多大な希望と影響を与えた。
今ここで日々撮られる数万のインスタ写真に豊彦の面影は映るよしもない。一方の病院船は2006年までニューヨーク湾で活躍。船が引退した今でもクィーンズの小さな診療所で無償医療を提供している。 (中村英雄)
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豊彦が1916年、自らの診療所を開設した
ブルックリンのワシントンストリート界隈。
今は人気のインスタスポット。診療所は跡形もない
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高見豊彦
(写真提供:ニューヨーク日系人会)
高見豊彦略歴
医博。1875年熊本県生まれ。16歳でニューヨークに渡り、ナンシー・E・キャムベル女史の献身的な指導と援護のもとクシング校(マサチューセッツ州)、ローレンスビル校(ニュージャージー州)で学んだのちラファイエット大学(ペンシルべニア州)を経てコーネル大学医学部卒業。日本人として初の米国医師免許取得。1906年ブルックリンで開業。一貫して貧しい労働者や在留邦人の医療と健康管理に携わった他、1907年には日本人共済会(1930年に日本人会と改称。現ニューヨーク日系人会)を創設。通算14年間会長を務めた。日系人の共同墓地開設にあたっても多大な貢献をした。1945年没。
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