連載588 山田順の「週刊:未来地図」とうとう開幕! 東京「利権五輪」の裏面史を総括する(中2)

連載588 山田順の「週刊:未来地図」とうとう開幕! 東京「利権五輪」の裏面史を総括する(中2)

 

バッハはカネで動くジャーマンビジネスマン

 今回の強行開催で、バッハ会長はすっかり「悪者」になってしまった。その分、トクをしたのが、失政を重ねた菅首相をはじめとした日本政府の閣僚、都知事などだが、バッハ会長の技量は彼らをはるかに超えていた。

 トーマス・バッハは、1976年のモントリオール大会のフェンシングの金メダリストとして知られるが、その素顔は政略に長けた敏腕ビジネスマンだ。大学でMBAと弁護士資格を取ると、ビジネス界に入り、スポーツビジネスの世界で暗躍してきた。

 その皮切りは、1985年にアディダスの国際担当となったこと。以来、シーメンスなどドイツの大企業の顧問弁護士や役員として高額な報酬を得てきた。

 IOCの会長職の年収は、3000万円程度だと伝えられている。しかし、多くのIOC委員は、参加の競技団体の役員や関連企業の顧問を兼任しており、その収入は公表されていない。バッハがシーメンスの顧問だったころの顧問料は年間5300万円だったと報じられているが、もちろん確かではない。欧米メディアによると、バッハの個人資産は5億ドルに達しているという。

 これまでのバッハの発言で、最大のひんしゅくを買ったのは「もっとも大事なのはチャイニーズピープル」だろう。しかし、これは言い間違えでもなんでもなく、彼の「本音」だ。なぜなら、利権ファーストのIOCにとって、次の北京冬季五輪は絶対に開催しなければならないからだ。もう、開催が決まった日本より、中国のほうが大切なのだ。

東日本大震災が五輪招致を復活させた

 ではここからは、なぜ日本は、こんなバカバカしい五輪を招致してしまったのか? その経緯を振り返ってみたい。

 かつて、私は「東京五輪招致反対」の記事を何本も書いてきた。それは、すでに五輪が特定の集団、人間を潤すだけのものになり、開催すれば国民負担が増すだけだからだ。簡単に言えば、得るものより失うもののほうが大きい。まして、「平和の祭典」など、有名無実にすぎないからだ。

 東京五輪が決まったのは、2013年9月、アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC総会でのことだった。このとき、日本のメディアは、高円宮久子さんの優雅なフランス語と英語のスピーチ、滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」という最終プレゼンテーション、そして安倍晋三前首相の「フクシマはアンダーコントロール」という発言が評価されたと、自画自賛した。

 しかし、真相はそんなところにはない。

 もともと五輪招致は、石原慎太郎・元都知事がぶち上げたものだった。2005年夏、石原知事は招致プランを公表し、2016年開催のオリンピックの東京誘致に乗り出すと宣言した。しかし、この招致プランには「必然性」(なんで開くのかという理由)がなく、あえなく挫折する。

 2009年10月のIOC総会で、東京は20票しか得られず、リオデジャネイロの46票、マドリードの29票に大きく差をつけられて惨敗した。ふつうなら、ここで招致を諦める。実際、これで東京招致話はたち消えになった。

 ところが、2011年3月に東日本大震災が起こると、情勢は一変した。

 2011年6月、東日本大震災から3カ月が過ぎたとき、石原都知事は、再度、五輪誘致をぶち上げた。東京五輪は「東日本大震災から復興した日本を世界に見せる好機となる」と言い、東京五輪を「復興五輪」と位置付けたのである。

(つづく)

 

この続きは8月17日(火)発行の本紙(メルマガ・アプリ・ウェブサイト)に掲載します。 

※本コラムは山田順の同名メールマガジンから本人の了承を得て転載しています。

【山田順】
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。
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