連載597 山田順の「週刊:未来地図」もはや完全に時代遅れ 五輪が「オワコン」となったこれだけの理由(下2)
理由(8)「国威発揚」を期待するのは時代遅れ
ナショナリズムがなければ、五輪は成立しないと言っていい。世界中の誰もが、自国選手を応援し、その結果に一喜一憂する。
これを為政者が利用して、国威発揚と体制の安定をはかったのが、かつての五輪だった。その意味で、五輪が「平和の祭典」などというのは綺麗事に過ぎす、冷戦時代は、「国威発揚の祭典」だった。ソ連や東独など東側諸国は、西側諸国に対抗するために国をあげて選手を強化し、メダル獲得を目指した。
その結果なにが起こったか?
1976年のモントリオール大会で、スポーツ大国のアメリカは、メダル獲得数で、ソ連、東独に抜かれて世界3位に転落してしまったのである。この結果に大きな衝撃を受けた西側諸国は、この後、国立のトレーニングセンターなどを設立し、トップアスリートの育成・支援に取組むようになった。
たとえば、モントリオール大会で金ゼロに終わったオーストラリアは、1981年に「国立トレーニングセンター」(AIS)を設置し、2000年の自国開催、シドニー大会では金16個を獲得した。日本も、1988年のソウル大会で、金4銀3銅7計14と過去最低の成績で終わったため、オリンピック強化指定選手制度、スポーツ振興基金を発足させ、2001年に「国立スポーツ科学センター」(JISS)をつくった。
しかし、現在、五輪は大きく様相を変えた。かつてアマだけだったのが、プロの参加が自由になり、国より個人が重視されるようになった。なにより、冷戦が終わってしまったので、国威発揚をする国も減った。いまや、中国ぐらいしか、五輪を国威発揚の場と捉えていない。
それを思うと、日本がこれほどまでにメダルにこだわるのは異様としか言いようがない。
理由(9)招致に立候補する都市がない
五輪が商業主義にまみれ、IOCが利権追求団体になるにしたがい、開催に立候補する都市が減った。最終的にアテネに決まった2004年の五輪には11都市が立候補したが、今回の東京には3都市しか最終的に手を挙げなかった。それで、招致決定で大騒ぎしたのだから、いま思うとバカげていた。
次の2024年パリ大会は、わずか2都市しか手を挙げず、100年ぶりということで初めからパリに決まっていた。また、今回の東京でのIOC大会で決まったブリスベンは、競争相手がいなかったため、IOCによる承認だけで決まった。
なぜ、五輪はここまで不人気になったのか?
それは、ここまで述べてきたことが重なったからであるが、いちばん参考になるのは、ボストンの例である。ボストンはいっとき2024年の開催を目指して招致運動を起こした。しかし、同時に反対運動が起こり、最終的に反対派が勝ったのである。
ボストンの反対運動を指揮したクリス・デンプシー氏が、当時メディアの語った理由は、一にも二にも地元市民の負担が大きすぎるという点だった。それを訴えたところ、市民の多くが招致に賛成しなかったのだ。IOCは、開催都市の費用負担を義務付けており、気にしていたのはテレビ映りのことだけだったという。
アメリカ五輪委員会は、ボストンの反対を受けて、比較的市民の反対が少ないロサンゼルスに候補都市を移し、2028年開催を決めたのである。
(つづく)
この続きは8月30日(月)発行の本紙(メルマガ・アプリ・ウェブサイト)に掲載します。 ※本コラムは山田順の同名メールマガジンから本人の了承を得て転載しています。
【山田順】
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。
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