連載657 教育を変えられない絶望ニッポン もはや若者はこの国を捨てるほかないのか? (下)
20年後、日本の子どもたちには職がない
このように見てくれば、いくら国が教育支援としておカネを使っても、教育の中身を変えない限り意味がないことがわかるだろう。
教育に投資することは国として必要不可欠だが、時代遅れの教育に投資しては、リターンなど得られない。得られないばかりか、子どもたちから未来を奪ってしまう。
すべてのモノ、ヒトがネットワークでつながり、ヒトはAIとともに働き、生活する。そういう21世紀の現代社会で求められるのは、旧来のスキルや知識ではない。「情報化社会」と言われ出してから、もう30年以上も過ぎたのに、日本の教育はいっこうに変わらないのだ。
2011年、デューク大学の研究者キャシー・デビッドソンが、ニューヨークタイムズ紙のインタビューで語ったことが、当時大きな波紋を呼んだ。彼はこう言った。「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時にいまは存在していない職業に就くだろう」
また、2014年、英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授らは論文『雇用の未来 コンピュータ化によって仕事は失われるのか』を発表した。
この論文の主旨は、20年後までに人類の仕事の約50%がAIないしは機械によって代替され消滅するとしたことだ。
このような社会で必要なことは、一つはデジタルのスキル、もう一つは世界の誰ともつながれる共通語(英語)のコミュニケーション能力、さらに独自のアイデアを出す能力だ。誰もが指摘するように、日本の教育の最大の欠点は、「画一教育」「詰め込み教育」である。これを一刻も早くやめなければならない。
35年たってもなにも変わらない日本の教育
「画一教育」「詰め込み教育」が間違い、時代に合わないことは、じつは35年も前にわかっていた。
1984年、当時の中曽根康弘首相が主導して設置された臨時教育審議会では、「記憶に偏った詰め込み型、知識集約型の教育」を改善するための議論が行われ、受験一辺倒の画一教育の弊害が指摘された。そして、これを契機に「個性重視」の教育が唱えられた。
しかし、唱えられただけで、なにも実施されなかった。
1996年、文科省は中央教育審議会を通して「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」という答申をまとめた。そこにでは、これから激動していく社会のなかで、子どもたちには「生きる力」を育むことが必要になるとし、「生きる力」について、次のように解説された。
「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力」
いま流行りの言葉で言えば、「アクティブラーニング」だろう。
しかし、これも実施されなかった。
そうした2002年、ようやく実施されたのが「ゆとり教育」である。しかし、これはこれまでの詰め込み教育をゆるくしただけにすぎなかった。そのため、反動が大きく、OECDの生徒の学習到達度調査など、国際学力テストで順位を落としたことをきっかけに、元に戻ってしまった。
(つづく)
この続きは11月24日(水)発行の本紙(メルマガ・アプリ・ウェブサイト)に掲載します。 ※本コラムは山田順の同名メールマガジンから本人の了承を得て転載しています。
山田順
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。