連載822 ロシアは必ず負けて衰退する! フィンランド冬戦争・継続戦争の教訓 (完)
(この記事の初出は6月28日)
ロシアの身勝手な理屈と罪の言い逃れ
ロシア人が口にする理屈は、いつも手前勝手である。不可侵条約を破ったソ連のモロトフ外相は、駐ソ連ポーランド大使を呼び出して、宣戦布告を告げた。
このときの理屈は、ドイツに占領されたポーランドの首都ワルシャワはすでに存在しない。これはポーランド政府が消滅したということだから、ソ連との間の条約も消滅しているというものだった。
しかし、ポーランド政府は亡命してフランスを経て英国に入り、ロンドンで活動を続けた。第二次大戦後、ポーランドはソ連の属国になったため、ソ連が1990年に崩壊するまで祖国に復帰できなかった。
ポーランドが悲劇的だったのは、占領後にソ連が100万人を超えるとされるポーランド人をシベリアに送り、強制労働をさせたことだ。また、戦争で捕虜にした約2万2000人のポーランド人兵士、将校、政府の官吏、警察官などをソ連のスモレンスク付近のカティンの森に連れて行き虐殺したことだ。
この「カティンの森の虐殺」事件は、ニュールンベルグ裁判でも取り上げられたが、ソ連は否定し、以後ずっとドイツによる犯行と主張し続けた。ソ連が反抗を認めたのは、冷戦が終結した1990年になってからだった。
国境線を移動させろという理不尽な要求
ドイツと秘密協定を結んで、後顧の憂いを絶ったソ連がポーランドの次に狙ったのが、バルト3国とフィンランドである。
1939年10月11日、レニングラード(現在のサントペテルブルグ)の安全を確保するためと称して、ソ連はフィンランドに対して一方的に領土の割譲と交換を要求する。フィンランド国境がレニングラードに近すぎ、砲撃できる距離だから、国境線を後退させろというのだ。
このときのソ連の要求を具体的に述べると、以下のとおりである。
・フィンランド湾の4つの島の割譲
・カレリア地峡のフィンランド国境を主要都市のヴィープリの東30キロまで西へ移動
・カレリア地峡の防衛線(当時のフィンランド軍司令官の名前を取って「マンネルヘイム線」と呼ばれる)の防衛設備の撤去
・ハンコ半島の30年間の租借および海軍基地の設置と約5000人のソ連軍の駐留許可
・駐留ソ連軍の交代のためのフィンランド領内の鉄道による通行権の付与これらの代償として、ソ連は、東カレリア地域でフィンランドと係争となっていた領域を大きく上回る地域をフィンランドへ割譲すると言ってきた。しかし、ソ連が申し出た地域はほとんど価値のないところであり、なによりも、マンネルハイム線を撤去してしまえば、次の要求に対してはまったく抵抗できなくなる。
そこで、フィンランドは、この理不尽な要求には、応じられないと返答した。
得意の「偽旗作戦」で軍事侵攻を開始
フィンランドは必死に外交交渉したが、11月13日に決裂。その間、軍に動員をかけていたものの、まさかソ連が侵攻してくるとは思わず、いったん動員を解除してしまった。しかし、ソ連はその隙を突いてきたのだ。
11月26日、ソ連のモロトフ外相は、駐ソ・フィンランド公使を呼び出し、フィンランド政府に宛てた覚書を手交した。フィンランドとソ連が接するカレリア地峡の国境マイニラでフィンランド軍が発砲しソ連兵が死亡、フィンランド兵がソ連領に侵入したため、厳重に抗議すると主張した。
これは、ロシアが得意とする「偽旗作戦」である。自分がわざと行った行為を相手が行ったと非難する。それを口実に、相手を攻めるのが偽旗作戦で、ロシアはウクライナにおいてもそれを行っている。
フィンランドは、その当時、カレリア地峡の国境地域には発砲できる部隊はいなかったと反論したが、完全に無視された。そうして、4日後の11月30日朝、ソ連軍がカレリア地峡の国境線を越えてフィンランド冬戦争が始まったのである。
(了)*本日はここまでとします。この続きは、明日配信します。
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山田順
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。
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