連載825 ロシアは必ず負けて衰退する! フィンランド冬戦争・継続戦争の教訓② (下)
(この記事の初出は6月29日)
史上最高のスナイパー、シモ・ヘイヘ
マンネルヘイム元帥とともに、冬戦争で忘れてはならない人物がいる、それは「史上最高のスナイパー」と称されたシモ・ヘイヘだ。
フィンランドは昔から狩猟が盛んで、各地に優秀なハンターがいた。彼らは森のなかで獲物を狙撃する術に長けていた。そのため、フィンランド軍は彼らを中心とした民兵による狙撃部隊を組織して、ソ連軍に対抗したのである。
彼らは、氷点下の気候をものともせず、正確な狙撃能力を発揮した。そのなかでもっとも優れていたのが、シモ・ヘイヘだった。
シモ・ヘイヘには数々の伝説があり、ソ連軍からは「白い死に神」と恐れられた。それは、彼が氷点下20度以下という酷寒のなかで、純白のスノースーツに身を包んで神出鬼没に現れたからだ。彼が狙撃によって射殺したソ連兵は、公式に確認されているだけで542人。非公式を含めれば1000人を超すのではないかと言われている。
シモ・ヘイヘは、300メートル以内なら確実に敵の兵士の頭部を撃ち抜くことができたという。その結果、ある戦闘では、なんと1分間で16人のロシア兵を射殺したという。また、ロシア兵士2人がコイントスで賭けをしていたところに現れ、コインをぶち抜いたうえで、2人の兵士の
頭を正確に撃ち抜いたという。
シモ・ヘイヘは冬戦争が終わる直前、ロシア軍の銃弾に頭を打たれ瀕死の重症を負った。しかし、一命はとりとめ、その後、戦場に戻ることなく退役した。彼は2002年に96歳で亡くなったが、晩年、狙撃の秘訣を聞かれると、ただひと言、「それは習熟だ」と答えたという。
ソ連軍の大攻勢により防衛線が突破される
初戦で大敗を喫したソ連軍は、スターリンの命令でいったん退き、再編を余儀なくされた。
1940年2月、ソ連軍はレニングラード軍管区のみの担当であった戦争を、参謀本部が直接指揮をとるソ連軍全体の戦争と規定し、60万人を動員して再侵攻に出た。まず、空軍機500機による空爆が行われ、その後、地上軍が進撃した。
この戦いでもソ連軍は甚大な被害を出したが、兵力の差によって、ついにマンネルヘイム線の突破に成功した。フィンランド軍も、この時期になると疲弊し、動員力も底を突いていた。
この状況を見て、スウェーデン駐在ソ連公使コロンタイによる和平交渉が開始された。当初、傀儡のクーシネン政権しか認めなかったソ連もフィンランド政府を認め、戦局は一大転換することになった。
武器・弾薬が尽きて余儀なく停戦へ
和平の条件としてソ連が提示してきたのは、カレリア地峡の割譲など極めて厳しいものばかりだった。そのため、フィンランド政府は最後の頼みとして、スウェーデンに正規軍の派遣と、支援を申し出た英仏連合軍の通過の了解を求めた。
英仏両国はすでに5万人の兵力を準備していて、3月15日にはノルウェーのナルヴィクに出発させるとフィンランド政府に約束していた。しかし、スウェーデンは英仏軍の通過を拒否したのである。
ヒトラーは3月1日にノルウェー侵攻命令を出し、4月9日にドイツ軍はナルヴィクを占領した。その後、ここは第二大戦の激戦地の一つになった。
3月8日、モスクワでフィンランド政府代表団とソ連政府代表団による休戦交渉が始まった。フィンランド国内には、英仏の支援があるなら戦争を続けるべきだという意見もあったが、戦力が残っているうちに講和すべきという意見のほうが強かった。
ここまでのフィンランド軍の武器・弾薬の消耗は激しく、マンネルヘイム元帥はこのまま戦争を継続した場合、敗北は必至であり、独立さえ危うくなると、政府に無念の進言をしていた。
(つづく)
この続きは8月8日(月)発行の本紙(メルマガ・アプリ・ウェブサイト)に掲載します。
※本コラムは山田順の同名メールマガジンから本人の了承を得て転載しています。
山田順
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。
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