連載827 ロシアは必ず負けて衰退する! フィンランド冬戦争・継続戦争の教訓③ (上)
(この記事の初出は6月30日)
ウクライナ戦争の行く末を考えるにあたって、フィンランドとソ連が戦った「冬戦争」と「継続戦争」のうち、主に冬戦争をこれまで2回にわたって詳述してきた。最終回の今回は、継続戦争を詳述する。
その結果からわかるのは、ロシアの政治戦略と戦争の仕方が、まったく変わっていないということだ。どう見てもロシアの勝利はなく、今後、戦争が長引けば長引くほど、ロシアは衰退していくだろう。最終的にロシア連邦は崩壊し、民主化ロシアができるかもしれない。
世界にとっても日本にとっても、これがもっとも好ましいシナリオだ。
冬戦争で国土の約10%を奪われた恨み
フィンランドは、1939年9月の第二次大戦勃発直前に、ドイツとソ連によって結ばれた独ソ不可侵条約の秘密協定によって、ソ連の権益圏と位置づけられ、同年11月30日にソ連から一方的に侵略された。
当初、スターリンは10日もすれば首都ヘルシンキは陥落し、フィンランドは降伏すると考えた。プーチンが、ウクライナ侵略で考えたことと、まったく同じである。
しかし、フィンランドは国を挙げて抵抗し、約3カ月間、ロシア軍の進撃を食い止めた。これが、「フィンランド冬戦争」(第一次ソ連フィンランド戦争)である。
国際社会、とくに米英仏はフィンランドを支援した。しかし、武器弾薬が尽きかけ、兵士の消耗も激しかったので、1940年2月末になると、独立を維持したまま講和するか、戦争継続するか、どちらかを選ばざるをえなくなった。その結果、講和が選ばれ、1940年3月12日、「モスクワ講和条約」が結ばれて、フィンランドは国土の約10%に相当するカメリア地峡地域をソ連に奪われることになった。
この地域は、フィンランドの主要な産業集積地で、ウクライナで言えば、現在、ロシアが完全制圧しつつある東部2州に相当する。なんとか独立は維持できたものの、この地域を失ったことで、フィンランド人のロシアに対する恨みは深まるばかりとなった。
この恨みが、1941年6月の「継続戦争」(第二次ソ連フィンランド戦争)につながる。継続戦争は、第二大戦中の間、約3年にわたって続き、1944年9月に、ソ連との間の2度目の講和条約締結によって終結した。
独ソ戦開始が継続戦争の引き金になった
冬戦争から約1年後の1941年6月22日、ヒトラーは英国と交戦中にもかかわらず、突如としてソ連に攻め込んだ。いわゆる「バルバロッサ作戦」である。これで、独ソ不可侵条約は紙切れとなり、第二次大戦の枠組みがほぼ確定した。
フィンランド冬戦争でヒトラーが見抜いたように、ソ連軍はドイツ軍の敵ではなかった。ソ連軍は敗走を続け、この年の12月までに、ドイツ軍は攻略目的地であるレニングラード、モスクワに迫った。
この独ソ戦開始が、フィンランドに継続戦争の引き金を引かせた。というのは、フィンランドは当初中立を宣言したものの、フィンランド国内に駐留していたドイツ軍機がソ連を攻撃したため、ソ連が報復空爆を行ったからだ。
この時点までに、フィンランドはドイツと協力するためのいくつかの協定を結んでいた。ソ連の脅威に対抗するため、ドイツの力を頼ったのである。
6月25日、フィンランドはソ連に宣戦布告した。フィンランドの目的は、冬戦争で奪われたカメリア地峡などの領土を回復することだった。そのため、フィンランドはこの参戦について、ドイツと共同作戦をするためではなく、あくまで前回の冬戦争の延長だと主張した。こうすることで、米英から枢軸側と見られたくないと考えた。
しかし、この主張は通じず、米英から間もなく国交断絶の通告を受けた。
(つづく)
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※本コラムは山田順の同名メールマガジンから本人の了承を得て転載しています。
山田順
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。
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