アートのパワー 第6回 黒人歴史月間(19世紀と現代の作家二人)(上)
1863年1月1日にリンカーン大統領が奴隷解放宣言に署名、同年12月には議会がアメリカ合衆国憲法修正第13条を承認した。その後1947年に連邦議会がリンカーン大統領の署名を記念し、2月1日を記念日とする議案を採択、翌年トルーマン大統領が2月1日を「自由の日(National Freedom Day)」に指定した。これが黒人歴史日となり、1926年に「ニグロ歴史週間」が始まり、1976年にはフォード大統領が1週間から黒人歴史月間に拡大することを公式に認めた。アメリカでは奴隷制度が250年続いた。黒人歴史月間は、アメリカ史におけるアフリカ系アメリカ人の多大な努力・功績を称えるとともに、人種差別の弊害を明らかにし、社会正義を求める抗議活動等に焦点をあてる。残念ながら、現時点では「黒人の歴史教育」が政治的な焦点となり、新たな社会「分断」の火種になっている。そんな中で、今回は二つの美術館の展覧会に注目した。
一つは、メトロポリタン美術館で開催された「Hear Me Now: The Black Potters of Old Edgefield, South Carolina」である。学芸員、人類学者、美術史家等、8名の専門家による学術研究をベースに、産業奴隷制度に視点を置いている。本展の名称「今なら私の声が聞こえるか」は、サウスカロライナ州最西端オールドエッジフィールド周辺で残忍非道な奴隷制度の下で労働を強いられた多数の男女、子供に『声』を与える。この地域は炻器(ストーンウェア:磁器と陶器の中間的なもの)に適した良質な粘土の産地で、初期の釜は南北戦争の数十年も前の19世紀初頭に存在した。ここで生産されたストーンウェアは頑丈で実用的、日常的食材の仕込みや保存に不可欠な高温焼成でアルカリ釉の焼き物であった。長さ30メートルの釜が使われていて、産業と呼べる規模だった。奴隷の労働はほとんどが農業で、綿花、砂糖キビ、タバコ関係だと思われているが、オールドエッジフィールドのストーンウェアは産業として利益を生み、プランテーション経済を支えた。そして、この産業が成り立ったのは、腕の立つ奴隷職人がいたからだった。
展示場に入ると、高さ約80センチの壺が12個置かれていた。驚いたことに、作った職人の名前があった。職人の名前は「デーヴ」、奴隷解放後は「デヴィッド・ドレーク(David Drake)」。彼は壺に制作日と短い詩を書き込んでいた。これは実に珍しいことである。奴隷に読み書きを教えることが禁じられ、犯罪として扱われていた時代のことである。奴隷には一切の人権が与えられず、いつ暴力をふるわれるのか怯える状況が強いられていた。主人の好き勝手に鞭で叩かれ、強姦され、売られ、拷問を受けるといった扱いであった。
デーヴは、腕が確かで想像力も豊かであったことで高い評価を受け、地元のセレブのような存在だった。しかし、言い換えれば、マスコット的存在だったのかもしれない。学芸員の一人は、今ならバスケの選手がスニーカーのブランドを宣伝するようなものかもしれないと皮肉っていた。壺の1つに「私の身内はどこに行ったのだろう(I wonder where is all my relation)」と書かれたものがあり、これを読むことで彼のパートナーも子供達も売られてしまい家族も親戚もいなくなっていたことが伺われる。次の行には「すべての人とすべての国に友情を(Friendship to all and every nation)1857年8月16日デーヴ」とあった。ハーバード大学アフリカ史・アフリカ系アメリカ人研究のヴィンセント・ブラウン教授は「アメリカ文学の中でも心に迫る詩の一つ」と説明を添えていた。この詩から、デーヴが奴隷の境遇で、家族を失いながらも深い人間愛と常識を備えた広い心の持ち主であったことが想像できる。「マーク」と「デーヴ」の2つの名前が書かれている壺もあった。マークは恐らくデーブの弟子で、ロクロを回す役を務めたのであろう。デーブは酔っ払って線路の上に寝て列車に引かれ、片足が切断されたという話だが、歴史家は奴隷制度の過酷さを考慮し、真相は異なるのではないかと見ている。18キロ以上の重さの粘土をろくろで回すことは両足を使っても安易なことではない。デーブは才能があって認められていたにも関わらず、奴隷の運命から逃れられることはなかった。
中編に続く
(写真:筆者)
アートのパワーの全連載はこちらでお読みいただけます
文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)
アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。