第7回 小西一禎の日米見聞録
政治記者としてウォッチした日米関係20年
デイリーサン・ニューヨークが産声を上げた2003年9月以後、日米両国は強固な絆のもと、信頼関係を築きながら、良好な外交関係を維持してきた。20周年企画の後半となる今回は、政治記者としてウォッチした日米関係20年について触れる。
ゲストを前に語ったこととは?
「とても素晴らしい演説だった。安倍氏が首相になってから、日米同盟は本当に強いものになった。これからも、日米関係の取材をよろしくお願いします」。
私は2015年5月上旬から3週間、米国政府の「お招き」を受け、米国各地を回るという実に幸運な機会に恵まれた。参加したのは、国務省のインターナショナル・ビジター・リーダーシップ・プログラム(IVLP)。米国が、日本をはじめ「各国の新興リーダーを対象としたプロフェッショナルレベルの交流イニシアチブ」(在日米国大使館HPより引用)で、80年を超える実績を誇る交流プログラムだ。日本からの参加者は、約4000人で、大江健三郎氏や村上春樹氏、海部俊樹、細川護熙両元首相、小池百合子東京都知事らもその昔、参加したという。
冒頭のかぎかっこは、IVLP参加時に最初の訪問地・首都ワシントンで幾度となく聞かされた言葉だ。直前の4月末、安倍晋三元首相が米上下両院合同会議で、日本の首相として初めて演説を行ったばかり。面会した国務省や国防総省の政府関係者、シンクタンク、大学教授らは安倍氏の演説に触れ、一様に称賛していた。中には、高揚感を隠しきれない人もいたと記憶している。
米国が招待した「ゲスト」であり、政治記者ということもあって、リップサービスもあっただろう。とは言え、歴史的な演説のみならず、オバマ元大統領と安倍氏がリンカーン記念館を訪れ、有名な銅像の脇に並んだ象徴的なシーンもあった。ワシントンの住人に与えたインパクトの大きさを痛感するとともに、米国における日本の首相の存在感が「ここまでになったか」といささか感慨深いものもあった。
創刊された2003年当時の首相は、小泉純一郎氏だ。先日、日米韓首脳会談が行われた米大統領専用の山荘「キャンプデービッド」(メリーランド州)に招かれた小泉氏は、就任直後の2001年6月、ブッシュ元大統領(子)と初めての日米首脳会談に臨んだ。二人がキャッチボールに興じる様子を覚えている人は少なくないだろう。
日米同盟の強化に乗り出した小泉氏は、アフガン戦争、イラク戦争に突き進む米国の姿勢をいち早く支持。その過程で、米国政府の要人から「ショー・ザ・フラッグ」、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」などと目に見える形での積極的な支援を求められた。2004年には、日本国内で激しい反対が起きたものの、イラクに非戦闘部隊を派遣した。イラク国内の戦闘地域と非戦闘地域の違いを国会で聞かれると「そんなの今ここで私に聞かれたって分かるわけがないじゃないですか」との名言、迷言も残した。
「どうしてころころ変わるのか」
小泉氏が退陣し、第一次安倍政権が発足した2006年から、第二次安倍政権が誕生した2012年まで、日本の首相は毎年変わり、混乱の時期が続く。安倍氏の前後で、首相を務めた人は自民党で2人、野党で3人の計5人。この間、取材で米国を何度か訪れる一方、日本国内の米国政府関係者と定期的に情報交換を重ねていたが、毎回聞かれるのは「日本の政治は大丈夫か。何で、こんなコロコロ変わるのか」の1点。
自民党が野党に転落するまでの数年間は、国会はねじれ状態となり、政権奪取を目指す野党側は攻勢を強めた。日米間の安全保障も政局の具となり、米国側は懸念を抱いていた。水面下の政治の動きや今後の見通しを説明しても、トップを4年に1回の大統領選で決める国の人たちには、なかなか理解してもらえかなったのを覚えている。
米軍普天間飛行場の移設を巡り、当時の政権は迷走を重ね、米国からの信頼は地に落ちた。2011年3月の東日本大震災で、米軍は「トモダチ作戦」と称し、救難・救助活動、物資供給に努めたが、温情の反面、いざとなった時の撤退も含めて冷徹な側面も持ち合わせていたことは、複数の取材や書籍で明らかになっている。その後、日米首脳による真珠湾訪問、現職大統領の広島訪問など象徴的な出来事もあった。
首相に就任すると、最初の外国訪問先に米国を選ぶ人が大半だ。日米関係の重要さを認識している現われの一つであり、米国と、というよりも米国大統領と良好な関係を構築することが政権維持に不可欠との見方は依然として根強い。
東アジア情勢は年々緊張を増す中、政治体制や国際法遵守の観点で価値観を異にする国々に囲まれた日本にとって、向こう20年間、どのような現実が待ち構えているのだろうか。
小西 一禎(こにし・かずよし)
ジャーナリスト。慶應義塾大卒後、共同通信社入社。2005年より政治部で首相官邸や自民党、外務省などを担当。17年、妻の米国赴任に伴い会社の休職制度を男性で初取得、妻・二児とともにニュージャージー州フォートリーに移住。在米中退社。21年帰国。コロンビア大東アジア研究所客員研究員を歴任。駐在員の夫「駐夫」として、各メディアに多数寄稿。「世界に広がる駐夫・主夫友の会」代表。専門はキャリア形成やジェンダー、海外生活・育児、政治、団塊ジュニアなど。著書に『猪木道 ~政治家・アントニオ猪木 未来に伝える闘魂の全真実~』(河出書房新社)。