アートのパワー 第20回
ルイーズ・ブルジョワ(下) ルース・アサワ(1)
ルイーズ・ブルジョワ作品は常に制作しながらも、ニューヨークの著名アートサークルでも知名度があるのに、作品の展示回数は少なかった。1960 年代からは美大の講師を務めていた。1982年、71歳になって、ニューヨーク近代美術館で初の女性アーティストの回顧展として、ブルジョワの個展が開催された。その後は欧米で数々の展覧会が開催されている。1999年には財団法人日本美術協会の高松宮殿下記念世界文化賞、また同年の第48回ヴェネツィア・ビエンナーレではファブリックを素材にした5つの最新作で最高賞の「ゴールデン・ライオン」を受賞した(ビエンナーレでは1993年に初めて作品が展示されている)。2000年、ロンドンの国立現代美術館テート・モダンの来場者を迎えるタービンホールで開館20周年記念のインスタレーションを依頼された。
ブルジョワの大作を見るにはディア・ビーコン(Dia: Beacon)がお薦めだ。マンハッタンからハドソン川沿いに北上したところにあるナビスコの元パッケージ印刷工場を改修して作られた現代アート美術館で、ブルジョワ他同時代のアーティストの作品が大々的に展示されている。河原温(1932-2014)の作品を展示した部屋もある。菅木志雄(1944- )や李禹煥(Lee U-Fan: 1936- )の作品も見られる。ディア・ビーコンに行くには、グランドセントラル駅からメトロノースのハドソン・ラインでビーコン駅下車(約1時間半)。ディア・ビーコンの分館は、マンハッタンにも数カ所に置かれている。
ルース・アサワ(Ruth Asawa: 1926-2013) カルフォルニア生まれ日系アメリカ人二世。彫刻家、絵画、アート教育擁護者
ルース・アサワの父親は福島の農家出身で、1902年日ソ戦争の徴兵を避けて南カルフォルニアの甜菜(シュガービーツ)畑で働いた。母親は養蚕農家に生まれ、1919年に写真だけのお見合いをしてアメリカの父親に嫁いだ写真花嫁だった。両親は、南カルフォルニアで野菜を栽培していた。ルース・アサワは、7人兄弟の4番目。子供達が農業の手伝うのは当然のことだった他、薪でお風呂を焚くことと野菜を入れる木箱を針金(ワイヤー)で修理することがルースの仕事だった。気が強い子だったので、一人でできる用事を任された。泥に足で絵を描くことが楽しみだった。アサワ家の会話は日本語で、子供達は小学校で英語を学んだ。土曜日の日本語学校で、ルースは特にお習字が好きだった。日曜日はクエーカーの教会に通った。日本人を受け入れてくれるところは数少なかったので、葬式、法事、仏教の寺へ行った。3年生の時にアメリカへの愛国心をテーマとしたポスターコンクールで、自由の女神の絵を描き入賞し、10歳でアーティストになることを決心した。
1941年の真珠湾攻撃の時、ルース・アサワは16歳だった。西海岸の日系人はスパイ行為を疑われ、アサワ家が耕していた土地がロスの飛行場に近かったこと、また父親が農協組合に参加していたことから、父親はFBIに逮捕された。母親と子供達は大統領令9066号の発令により、収穫直前のイチゴをそのままに、サンタ・アニタパーク競馬場に一時収容された。そこへディズニー・スタジオで『白雪姫』と『ピノキオ』のアニメの仕事をしていた3人の日系人アーティストが収容され、ルースは彼らからドローイングや遠近法を学ぶことができた。その後、ルース一家は、アーカンソー州ローワー戦争移住センターに移された。
父親の生死が不明のまま6ヵ月を経て、ようやく父親がニューメキシコ州の収容所にドイツ人やイタリア人捕虜と一緒に収容されていることが分かった。ルースは、法務省や司法長官などに手紙を書き、父親がせめて家族と同じ収容所にいられるようにしてほしいと何度も陳情したが、父と再会できたのはそれから6年後のことだった。
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文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)
アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。