第9回 ニューヨーク アートローグ
「アートはみんなのもの」
ニューヨークの地下鉄アート事情<1>
落書きアート
ニューヨークのサブウェイといえば、汚くて危うい暗い地下の印象がなかなか拭えない。ニューヨークが犯罪都市と呼ばれていた80年代初めの地下鉄は車両の外側も中もグラフィティアートで埋め尽くされ、脅威的で熱気に溢れていた。地下鉄の落書きはライターと呼ばれるアーティストたちが自分の名前やニックネームなどをタグにしてスプレー缶やマーカーで独自の表現方法で書いていく。夜中に車庫に忍び入るか日中堂々と描きまくる者もいた。
ペンシルベニアの田舎から出てきたばかりのキース・ヘリング(1958年−1990年)も街中に広がるグラフィティのパワーに圧倒された。しかしグラフィティ・アーティストやライターたちとは一線を画し、地下鉄構内の空いている広告板に貼られている黒い紙に注目。白いチョークでシンプルな絵を描いた。これが彼を一躍有名にした歴史に残る「サブウェイ・ドローイング」の始まりだ。
彼は「アートは大衆のためにあるもの」と考え、一部の上流階級が行く美術館ではなく誰もが利用する地下鉄こそがキャンバスだった。とは言え公共物への損壊罪で逮捕されるため、駅から駅へと急いで走り描くという行為を1985年まで繰り返した。駅員に通報されて逮捕されることも。その後地下鉄の落書きは1994年にジュリアーニ市長によりニューヨークを安全都市に変えるための契機として一掃された。犯罪の巣窟ともいわれた地下鉄がきれいになり犯罪は激減したが、一方で特有の地下鉄アートを惜しむニューヨーカーも少なくなかった。
グランドセントラル駅の「地下鉄美術館」
街のグラフィティアートや地下鉄の落書きが物議を醸し出す状況下、市の公共機関を運営するMTA(メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティー)は1985年からMTAアーツ&デザインとして駅構内へのアート作品の設置を始めた。地下鉄駅数は470駅以上あるが、これまで400名以上の巨匠作家から若手作家による、常設アート、ポスター、写真、デジタルアート、ライブ演奏、詩など幅広い芸術活動を通じて、地下鉄利用者に芸術を提供し、通勤時間を活気づけてくれる。パブリック・アートのコレクションとしては世界最大級の規模といえよう。
特に2017年に開通したQ線の駅の壁を飾る鮮やかなモザイクタイルは各駅を特徴づけている。アレックス・カッツやチャック・クロースなど著名なアーティストが参加している。一方で14丁目/8番街駅プラットフォームや階段に設置された小さな人々の像は、トム・オッタネスの『ライフ・オブ・アンダーグラウンド』(2000年)の彫刻作品群で20年来乗客を楽しませている。またB・C線72丁目駅の「イマジン・ピース」、「リメンバー・ラブ」と書かれたオノ・ヨーコの『スカイ』(2017年)、コニーアイランド・スティルウェル街駅ターミナルのロバート・ウィルソンのガラスに描かれた『マイ・コニー・アイランド・ベイビー』(2004年)も一見の価値がある。
タイムズスクエア/42丁目駅やグランドセントラル駅にはアートが溢れかえっている。タイムズスクエア/42丁目駅のロイ・リキテンスタイン『タイムズ・スクエア・ミューラル』(1994年)、グランドセントラルと結ぶシャトルの通路にあるニック・ケイブのモザイクとビデオによる『イーチワン、エブリワン、イコール・オール(みんな平等)』は注目株だ。グランドセントラル駅には、中央コンコースの天井画はもとより、グランドセントラルマディソン駅コンコースに草間彌生の大壁画『愛のメッセージ、私の心から宇宙へ』(2022年)、キキ・スミスの『リバー・ライト』も時間を忘れさせる大作だ。駅構内はもはやアンダーグラウンド・ミュージアムだ。80年代に地下鉄で始まった大衆のためのアートは生き続けている。
梁瀬 薫(やなせ・かおる)
国際美術評論家連盟米国支部(Association of International Art Critics USA )美術評論家/ 展覧会プロデューサー 1986年ニューヨーク近代美術館(MOMA)のプロジェクトでNYへ渡る。コンテンポラリーアートを軸に数々のメディアに寄稿。コンサルティング、展覧会企画とプロデュースなど幅広く活動。2007年中村キース・ヘリング美術館の顧問就任。 2015年NY能ソサエティーのバイスプレジデント就任。