補助金で新工場建設ラッシュ!しかし、「日の丸半導体」の復活はありえない(中)

1980年代、日の丸半導体は世界一だった

 半導体の話になるたびに引き合いに出されるのが、1980年代に日本の半導体が世界を席巻したことだ。事実、1980年代半ばの世界の半導体生産企業トップ5は、すべて日本企業だった。1989年には、日本企業のシェアは世界の53%を占めていた。
 当時、半導体の製造技術は日本がダンゼン世界をリードしていた。基礎技術はアメリカだったとはいえ、工場にクリーンルームをつくったのもの、LSI(大規模集積回路)をつくったのも日本だった。そうしたなかで、通信機器とコンピュータに欠かせない高度な半導体が生み出されていった。
 日本は、こうした半導体をつくる“微細技術”においては、世界一だった。そのため、日の丸半導体の性能、歩留まりは世界一だった。
 ただし、半導体生産は、東芝、富士通、NECなどの総合電機メーカーの1部門にすぎず、半導体専門の企業は生まれなかった。これが、いま思うと仇(アダ)になったと言える。

IT進展の時代の変化に適応できなかった

 日の丸半導体が凋落したのは、1990年代に日米半導体協議で、生産量を制限されたことが大きい。ただし、もっと大きいのは、コンピュータと通信における次の時代の変化に取り残されたことだ。
 すなわち、大型コンピュータからパソコン、そうしてスマホにとITが進展するのに伴い、半導体の主戦場は変わっていった。この変化のなかで、日本が得意とした微細技術よりも設計技術がもっとも重要になると同時に、大量生産への投資が大きな意味を持つようになった。
 こうした時代に合わせて、欧米、台湾などでは半導体産業が総合電機からスピンアウトしたが、日本はいつまでも一部門のままだった。そのため、シリコンサイクルに応じた大型投資ができず、次々にシェアを失った。こうしていまや、日本の半導体産業の世界シェアは10%を割ってしまった。
 ただし、半導体製造装置においてはアメリカに次ぐ31%のシェア、主要半導体部素材においては世界トップの48%のシェアを維持している。そのため、「夢をもう一度」と、多くの関係者が願っている。それが、経済安全保障政策と絡んで、今回の半導体産業への巨額な政府投資を決めさせたもっとも大きな理由だ。
 しかし、この願いは、冷静に分析すると叶わないという。これまで、私は半導体産業の知人、専門家など何人かに話を聞いたが、誰もがそう言って首をひねるのである。

海外に引き抜かれて日本には人材がいない

 「もはや日本に最先端半導体をつくる技術も、人材もない。だから台湾TSMCを頼ったわけです。ほかのケースも同じで、本当にうまくいったとしても、数年では追いつけるわけがない」
 と、かつて東芝メモリーの幹部だった人間は言った。
「モーリス・チャン(TSMCの創業者)は新工場をつくるたびにIBM、日立、東芝などから優秀な技術者を大金で一本釣りしていった。韓国サムスンも中国企業も、日本の有数な人材を引き抜いていった。だから、日本にはもう人材はほとんどいないんです。となると、いくら半導体に援助金を出したとしても、それは単なるファウンドリーを強化するだけ。欧米のファブレスの下請け生産工場ができるだけです」
「ITmedia」の記事(2月28日、窪田順生)『日の丸半導体』栄光は復活するのか “TSMCバブル”の落とし穴』は、次のように書いている。
《日本国内でTSMCの存在感が増していけばいくほど、日本は「安い工場」というポジションが固定化されていく。ASEAN諸国に賃金が抜かれるのも時間の問題なので、製造拠点としてはもてはやされるかもしれないが、国産半導体は「衰退」の一途をたどっていくだろう。》
(つづく)

この続きは6月14日(金)発行の本紙(メルマガ・アプリ・ウェブサイト)に掲載します。 

※本コラムは山田順の同名メールマガジンから本人の了承を得て転載しています。

 

山田順
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。

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