サミュエル・ジョセフ・ブラウン・ジュニア Samuel Joseph Brown, Jr. 1907-1994『自画像』 ca. 1941年 肖像画や自画像は「ニュー・ニグロ(新しい黒人)」のアイデンティティを追求する重要な表現手段だった。横顔と鏡に映る深刻な自分を描いた作品は、W.E.B. デュボイスが「二重意識」と定義したアフリカ系アメリカ人の心理状況(真の自我意識を持たず、白人の価値観で自分を省みざるを得ない)を描いている。
ラングストン・ヒューズLangston Hughes 1901-1967は、詩人、社会活動家、小説家、劇作家、コラムニストであり、ハーレム・ルネサンスの指導者として一番良く知られている。ヒューズ はコロンビア大学に入学したが、1922年に退学。大学では黒人であることを理由にキャンパス内の部屋への入居を拒否されたり、WASPのカテゴリーに当てはまらない者を敵視する同級生らの人種差別を受けた一方で、彼の関心は勉強よりもハーレムの住民やコミュニティに移っていた。退学後は船員となり西アフリカ・ヨーロッパを訪れ、パリ、ロンドンに短期間滞在した後、帰米し、1926年ペンシルバニア州にある米国で最初に設立された歴史的黒人大学リンカーン大学に入学、29年学士号を取得後、ニューヨークに戻る。ヒューズの人生と作品は、1920年代のハーレム・ルネサンスに多大な影響を与えた、中でも1926年にThe Nation誌に発表したエッセイ『黒人芸術家と人種の山 Negro Artist and the Racial Mountain』では、「 今、創作に携わっている我々黒人アーティストは、恐れたり恥じることなく、それぞれの皮を被った自分を表現するつもりだ。我々は、明日のため、己が知る限り強固な神殿を築き上げ、山の頂上に立ち、自己を解き放つ(自分になる)のである」と宣言した。
2024年3月21日付NYタイムズ紙に掲載された記事『Dinner Party that Started the Harlem Renaissance 』は、今から100年前にダウンタウンにあるシビック・クラブCivic Clubで開催された晩餐会の様子を次のように伝えている――「黒人と白人が女性も含めて一緒に食事ができる、市内で唯一のプライベート・クラブ」であり、「アフリカ系アメリカ人の知識人と著名な白人リベラルが集うNYの上流階級のクラブ」であるシビック・クラブで、アラン・ロックと社会学者兼当時の著名な黒人雑誌Opportunity誌の創刊編集者チャールズ・S・ジョンソンが晩餐会を主催した。出席者は100名、目的は、注目に値する才能のある黒人作家や作家志望者らに進歩的な考えを持つ白人出版社との出会いの場を提供することだった。こうしたイベントを企画したアフリカ系アメリカ人編集者等の努力によって、10年後には黒人作家による40冊以上の小説、ノンフィクション、詩集等が出版された。「その作品群は、アメリカ文学の風景だけでなく、地域社会をも一変させるものだった。」
ジェームズ・ヴァン・デア・ジーJames Van Der Zee 1886-1983『カップルCouple 』 Harlem 1932年 スタジオ写真家は、ポートレート、祝いの場、冠婚葬祭を撮影するとともに、日常生活を記録し続けた。この写真では「毛皮のロングコートにスタイリッシュな帽子をかぶったエレガントな若いカップルが、キャデラックV-16限定モデル車の横でポーズをとっている」一部の黒人たちの新しい物質主義と上昇志向を表している。1969年に開催された第1回目の特別展『ハーレム・オン・マイ・マインド』ではヴァン・デア・ジーの写真が多く展示された。