アートのパワー 第34回メトロポリタン美術館で『ハーレム・ルネサンスと大西洋を越えるモダニズム』展(3)The Harlem Renaissance and Transatlantic Modernism(7月28日まで)

 

パリは今でも文化都市として大きな存在であるが、100年以上前の当時のパリはまさに世界文化の中心だった。黒人への偏見は少なく、アメリカのように法律的な人種隔離もなかった。フランスは芸術を深く愛し、敬意を払い、その促進を自らの使命としていた。この記事でこれまで取り上げた文化人も、これから述べるアーチストも、パリに滞在している。白人の欧米人も、ラテン系も東洋系の芸術家達も、文化的な刺激を求めてパリに集まった。そしてハーレム・ルネサンスは、その名を冠したニューヨークの地域にとどまらず、パリでも、全米の主要都市でも、アフリカン・アメリカン文化を開花させていた。

絵画でどのような表現をするかは作家個人の追い求めるものによる。このハーレム・ルネサンス展で特に私の目を引いたのは、同じ世代でありながら、全く異なるの思想や技法を用いた3人の作家だった。

アーチボルド・モトリー・ジュニアArchibald Motley, Jr. (1891-1981) は、1920~1930年代にかけてシカゴにおけるアフリカ系アメリカ人の情景を色鮮やかに大胆な視覚言語で記録した。ニュー・オリンズの出身で、幼い時家族がシカゴへ移住し、父親はプルマンカー(豪華寝台列車)のポーターの職を得た。当時プルマンカーで働くことは、黒人にとって社会的地位のある仕事だった。モトリーは生涯の大半を、「ブロンズビル」として知られるシカゴ・サウスサイドの黒人社会から数マイル離れた、白人が多く住む人種的に寛容な地域で過ごした。白人の子供たちが通う学校で学び、若い頃は他の黒人たちと過ごすことはあまりなかった。後に父親に同行して、西海岸から東海岸まで全米各都市を訪れたとき、それまで経験したことがなかった様々な人種偏見や差別に遭遇しショックを受けたという。

アーチボルド・モトリー・ジュニア『ブルースBlues 』1929 、キャンバスに油彩

シカゴ美術館附属美術大学School of the Art Institute of Chicago に入学した初の黒人アーティストの一人で、ここで保守的な昔ながらの教育を受けた。同級生達が1913年ニューヨークで行われたアーモリー・ショーArmory Show(正式名称は国際近代美術展。セザンヌ、マチス、ピカソが紹介された画期的な展覧会)に反発して暴動を起こすような環境で、モトリーはジャズの影響を受けた自分の作品を何年もの間隠し続けていた。1929 年にグッゲンハイム・フェローを授与され、パリに1年間留学した。黒人に限らず多くのアーティストがアフリカ美術にインスピレーションを求めたのに対し、モトリーはルーブル美術館に展示されたイタリア・ルネサンス期の作品やドラクロワ、レンブラントに惹かれ、自分が学んだ西洋美術の巨匠達の古典的な手法を自らのモダニズムの表現として見出した。彼の1929年の作品『ブルースBlues』は、ジャズ・エイジのパリのダンスホールを色彩豊かなリズムにのせて描いたもので、この時期のアフリカ系アメリカ人の文化を伝える代表的な作品とされている。

モトリーはアフリカ系、ヨーロッパ系、クレオール人、先住アメリカ人などの血を引く混血で、モトリー自身の肌も白かった。黒人でも白人でもない自分の人種的アイデンティティと格闘し、アウトサイダーとしての自己を確立していった。1930年代に西洋の芸術的美学から逸脱し、より都会的な黒人の環境を、非常に非伝統的なスタイルで描くようになった。モトリーは、見る者が彼の作品内に描かれている人を厳密に黒人か白人か見分けることを難しくした。人種の中に存在するニュアンスや多様性を示し、厳格に人種的イデオロギー(価値観)で見れないようにした。彼は、全ての黒人をステレオタイプで一般化することに対抗する方法として、様々な黒人のタイプを描くために肌の色、身体的特徴の違いにこだわり、アフリカ系アメリカ人のそれぞれの色合いに意味を与えた。スミソニアン博物館とのインタビューで、「みんな同じ色ではないし、真っ黒でもない…茶色ばかりでもない。一人ひとりに個性を与えるようにしている。これだけ多くの人物をまとめ、それぞれの特徴を持たせるのは難しいことなんだ」と語っている(1978年)。モトリーはアフリカ系アメリカ人の個性を主張することで、本質的に黒人が「形式的な描写に値する」存在であること、そして、黒人であることを示す物理的な目印は、不安定で信頼性に欠けるものだということを露わにした。

この続きは7月5日(金)発行の本紙(メルマガ・アプリ・ウェブサイト)に掲載します。

アートのパワーの全連載はこちらでお読みいただけます

文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)

アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。

タグ :