アーチボルド・モトリー・ジュニアArchibald Motley, Jr. (1891-1981) は、1920~1930年代にかけてシカゴにおけるアフリカ系アメリカ人の情景を色鮮やかに大胆な視覚言語で記録した。ニュー・オリンズの出身で、幼い時家族がシカゴへ移住し、父親はプルマンカー(豪華寝台列車)のポーターの職を得た。当時プルマンカーで働くことは、黒人にとって社会的地位のある仕事だった。モトリーは生涯の大半を、「ブロンズビル」として知られるシカゴ・サウスサイドの黒人社会から数マイル離れた、白人が多く住む人種的に寛容な地域で過ごした。白人の子供たちが通う学校で学び、若い頃は他の黒人たちと過ごすことはあまりなかった。後に父親に同行して、西海岸から東海岸まで全米各都市を訪れたとき、それまで経験したことがなかった様々な人種偏見や差別に遭遇しショックを受けたという。
アーチボルド・モトリー・ジュニア『ブルースBlues 』1929 、キャンバスに油彩
シカゴ美術館附属美術大学School of the Art Institute of Chicago に入学した初の黒人アーティストの一人で、ここで保守的な昔ながらの教育を受けた。同級生達が1913年ニューヨークで行われたアーモリー・ショーArmory Show(正式名称は国際近代美術展。セザンヌ、マチス、ピカソが紹介された画期的な展覧会)に反発して暴動を起こすような環境で、モトリーはジャズの影響を受けた自分の作品を何年もの間隠し続けていた。1929 年にグッゲンハイム・フェローを授与され、パリに1年間留学した。黒人に限らず多くのアーティストがアフリカ美術にインスピレーションを求めたのに対し、モトリーはルーブル美術館に展示されたイタリア・ルネサンス期の作品やドラクロワ、レンブラントに惹かれ、自分が学んだ西洋美術の巨匠達の古典的な手法を自らのモダニズムの表現として見出した。彼の1929年の作品『ブルースBlues』は、ジャズ・エイジのパリのダンスホールを色彩豊かなリズムにのせて描いたもので、この時期のアフリカ系アメリカ人の文化を伝える代表的な作品とされている。