ソウル郊外の百済遺跡から倭の埴輪見つかる

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共同通信
倭の技術者が製作したとみられる円筒埴輪が出土した遺構=ソウル郊外の城南福井洞遺跡(大韓文化財研究院提供・共同)

 ソウル郊外にある百済の王城跡に近い遺跡から、5世紀前半に倭の技術者が製作したとみられる円筒埴輪(はにわ)の破片が見つかった。倭王権から百済中枢に派遣された高官が現地で死後、日本式の古墳に埋葬されていた可能性がある。専門家は、同盟を結んでいた百済と倭の「密接な関係を裏付ける発見だ」と評価。埴輪のかけらが古代の日韓交流に光を照らした。(共同通信=渡辺夏目)

 大韓文化財研究院が2022年までにソウル南方の城南福井洞遺跡の発掘調査を行い、今年4月に報告書にまとめた。

 百済王朝は4世紀、最初の都を漢城(ソウル)に置いた。日本列島での中心勢力は、大和(奈良県)を拠点に成立した倭王権。百済から取り入れた文化知識で発展し、朝鮮半島有事の際は軍事支援にも乗り出した。文献には緊密な関係が記されているが、直接確認できる遺物は乏しかった。

 研究院の依頼で出土品を確認した奈良文化財研究所飛鳥資料館の広瀬覚古墳壁画室長は「漢城で倭人の活動を、はっきりと示すものが出土したのは初めてだ」と感嘆。「単純な交易ではなく、政治的な深い関係性を示している」と解説する。

 埴輪の破片は、王宮で使う土器や瓦などを生産する官営窯の「ごみ捨て場」の遺構から見つかった。古墳には使われなかった廃棄品とみられ、一緒に出土した土器片には日本と朝鮮半島の両方の製作技法が確認された。

 大韓文化財研究院の韓玉民・研究教授は「円筒埴輪も百済と倭の職人が一緒に作っていた可能性が高い」と指摘。「共に生活しながら関係を築き、技術を融合させたのだろう」と想像する。

 破片は赤みがかった褐色で、縦じま柄のような無数の細い線が刻まれている。板状の道具で表面を平滑にした跡で、当時は日本列島だけに見られる技法だ。破片七つからこの特徴が確認された。復元すれば高さは50~60センチ程度になるという。

 わざわざ日本の技術者を招いて作らせたのは、なぜか。広瀬氏は「被葬者は百済と倭の双方の王と密接な関係にあった者ではないか」と推察する。外交などで重役を担った倭の高官を敬い、祖国の埋葬方法を順守したとの見方だ。

 広瀬氏によると、埴輪の破片には、古墳造成ラッシュで埴輪の大量生産に慣れた職人ならではの「手抜き」の痕跡も。ベテランを呼ぶこだわりがうかがえ「百済の中枢に日本式の古墳がある見通しが出てきた」と今後の調査に期待した。

 古代に廃棄された埴輪が、1600年の時を超えて強固な協力関係を証明する鍵となった。「当時の人は想像もしなかったことでしょう」。韓氏が笑顔で語った。

 【円筒埴輪】

 古墳時代に作られた土管状の特殊な土器で、古墳の周囲に大量に並べ立てられた。墳丘と外部を仕切る機能や、被葬者の霊を守る結界としての役割があったと考えられている。粘土ひもをらせん状に積み上げ、表面を木製工具や指でならして成形した。大きさは古墳の規模に比例するといわれる。円筒埴輪が圧倒的に多いが、動物や人物などをかたどった形象埴輪もある。

出土した円筒埴輪について説明する大韓文化財研究院の韓玉民・研究教授。横に置かれているのは円筒埴輪の復元模型=2024年4月、韓国・潭陽(共同)
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