アートのパワー 第35回 メトロポリタン美術館で『ハーレム・ルネサンスと大西洋を越えるモダニズム』展(4)The Harlem Renaissance and Transatlantic Modernism(7月28日まで)

 

サウス・カロライナ州出身のウィリアムH.ジョンソンWilliam H. Johnson 1901-1970は、17歳の時にハーレムに移住した。アフリカ系アメリカ人の大移動の一人である。おじがマイアミ・ニューヨーク間のプルマンカーのポーター (モトリーの父親と同じ)で、ハーレムに住んでいた頃はおじの世話になった。早くから画家になる決心をし、港湾労働者、コック、ポーターの仕事をしながらニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザイン で学ぶための月謝を稼いだ。  

その頃からモダニズムへの関心が強かった。卒業前にアカデミーが提供していた賞を受賞し、先生達の金銭的な援助を受け1927年パリを訪れる。1年間パリに滞在し、ここで初の個展を開催した。モダニズムに触れ油絵、水彩、ペン・アンド・インク、木版画、など、さまざまな手法で作品を制作した。1929年にアメリカに戻りにハーモン財団(アフリカ系アメリカ人を支援した最初の財団で、ハーレム・ルネサンスに大きな影響を与えた)の1929年度黒人美術功労賞を受賞した。翌年ヨーロッパに戻り、 デンマーク人のテキスタイルアーティスト、ホルチャ・クラーケHolcha Krake と結婚、10年近く北欧で生活した。この時期関心を持ったフォークロア(民芸)や妻の民芸哲学が、彼の作品に大きな影響を与えた。1937年ヨーロッパ戦争直前にジョンソンは妻とニューヨークに戻り、グリニッジ・ヴィレッジに定住した。帰米後10年間で、彼のアートは今日認識されているような強烈で「プリミティヴィズム」なスタイルへと変貌を遂げた。1939年、公共事業促進局(Work Project Administration (WPA):世界大恐慌時、道路や公共建築物の建設に数百万人の失業者を雇用する政府プロジェクト)が一番多額の出資をしていたハーレム・コミュニティ・アート・センターでアーティスト兼講師の仕事を得た。そこで提供していたスクリーン印刷のクラスで、ジョンソンはこの商業的な技法を学び、印象的で鮮やかな平坦な色彩を自分の美術表現に取り入れていった。『ジターバグズJitterbugs』シリーズは、この時期に絵画とスクリーン印刷で制作した。ジターバグは第二次世界大戦直前にハーレムで生まれ、アメリカの 「スウィング 」文化に浸透したダンスで、チャールストン、ジャグ、ビッグアップル等、南部の速いテンポのジャズに合わせた様々なダンスを指す。ダンサーたちの生き生きとした動きを、スクリーン印刷特有の平坦な色面を取り入れ、ジグソーパズルのピースのように構成している。

ウィリアムH.ジョンソン『ジターバグズ(V)』1940-42、ボードに油彩。

13年間海外で暮らし、モダニズムのスタイルで絵を描いたが、帰米後はアフリカ系アメリカ人の文化と伝統に没頭し、民芸風の素朴さを特徴とする絵画を制作した。南部出身のジョンソンは、「自分と同じ人々(his own people)」を描きたいといい、南部の田舎町で育った自分の生い立ちやアフリカ系アメリカ人の日常生活を記録した。アラン・ロック は「芸術において黒人をテーマや主題とする上で極めて重要な芸術的表現は、固定観念を打ち破り、新しいスタイル、独特の新鮮な技法で、ある種の特徴的な作風を生み出さなければならない」と書いている(Met catalog “The Legacy of the Ancestral Arts” in The New Negro: An Interpretation)。  

ジョンソンは1944年に妻を乳癌で失い、1947年に精神障害で入院、1970年に亡くなるまで23年間ロングアイランドの州立病院で過ごした。1955年を最後に絵を描くことはなかった。彼の生涯の作品は、1957年介護人がこれ以上は保管費を払えないと宣告し、処分されるところだったのを、友人達がハーモン財団に連絡し、財団が引き取った。しかし1967年財団は閉鎖し、ジョンソンの全作品はスミソニアンに寄贈された。スミソニアンアメリカ美術館では、ジョンソンの『 自由の闘士たち: 正義を描くウィリアムH.ジョンソンFighters for Freedom: William H. Johnson Picturing Justice』展が9月8日まで開催されている。

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文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)

アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。