第11回 ニューヨーク アートローグ
子供たちの落書きが
セントラルパークの天空に広がるとき
「ペトリット・ハリライ:アベタレ」展
メトロポリタン美術館屋上庭園
( The Iris and B. Gerald Cantor Roof Garden)
2024年4月30日―10月27日
夏アートの風物詩を醸し出す空間
ニューヨークが最も清々しい季節を迎える頃から初冬にかけて開放されるメトロポリタン美術館の屋上庭園。あまり知られていないが、ニューヨーカーのシークレットスポットだ。美術館といえば室内空間に程よく構成された芸術作品を静かに鑑賞する場という観念があるが、セントラルパークとマンハッタンの絶景を360度ぐるりと見下ろすことのできる屋上は混み合う館内とは別世界。カフェ・バーもあり、金曜日の夕方にはシャンペンを片手にアートとサンセットを楽しめる夏の極上の過ごし方だ。
美術館は2013年から毎年異なるアーティストを招いて、サイト・スペシフィック作品(場所の特性をいかし、環境や生活空間、歴史的、政治的、文化的な成り立ちまで含む)を展示している。2014年のコンセプチャル・アートを代表するダン・グレアムの建築物は鏡とガラスのパビリオンで、環境による人々の心理やストレスをはじめ現代社会の様々な問題を提示。
また2018年のフマ・ババの恐ろしい顔の巨大な木彫作品は、挑発的かつポストアポカリプス的とも言え圧巻だった。美術館という既成の空間から飛び出し、時空間を超えるアートが展開する。何よりこの世界最大級の美術館がニューヨーク州の住民およびニューヨーク、ニュージャージー、コネチカットの学生は、いつでも希望入場料制なのが嬉しい。有効なIDを必ず持参すること。
注意:天候により(晴天でも気温が90℉=32℃に達すると)閉鎖される場合があるので事前に要確認を。
空に描かれた絵
今シーズンはコソボ出身(1986年生まれ)のペトリット・ハリライによる作品「アベタレ」。アベタレとはアルバニア語のアルファベットを習う初等教科書で、文字が絵と文章に結びついている。屋上ではまず摩天楼を背景にして、巨大な蜘蛛が目に飛び込む。鉄の黒い線の彫刻だ。不気味に笑う蜘蛛の足の上には鳥が飛び立とうとしている図。空間に描かれた絵といった不思議な感覚だ。
ハリライはコソボのルニクで通っていた学校や、アルバニアや旧ユーゴスラビア諸国の学校で見られる子供たちの落書きや描画、デスクに刻まれた落書きを下にし、それを拡大し三次元の彫刻にした。元の手書きの痕跡が残されている。コソボは1990年代のユーゴスラビア紛争で、その間多くの子どもたちは教育が受けられなかった地だ。「子どもたちが退屈や気晴らしで机に描いた何気ない落書きは、心のなかの幻想や夢を表しています」と語る。
2015年からこのテーマを探求し始め、まだ孤立していた自国からヨーロッパへと広げることが重要だったと言う。リサーチはバルカン半島各地の学校の机の落書きにも及んだ。自分が置かれている環境や状況に関わらず、描かれているモチーフは名前やフレーズ、他愛のないキャラクター、宗教や思想のシンボル、そしてサッカーやアニメのヒーロー、マイケル・ジャクソン、エミネムなどポップ・カルチャーが見え隠れする。
そのグローバルな感覚は意外だ。落書きは万国共通なのだろうか。まさに何にも縛られず、そのときの純粋な気持ちの表れにほかならない。ハリライ自身も戦争によって生活が中断され、家を失った。空間に拡大された「絵」は、深く傷つけられたすべての子どもたちが想像力の翼を広げ未来を思い描くために捧げられている。
梁瀬 薫(やなせ・かおる)
国際美術評論家連盟米国支部(Association of International Art Critics USA )美術評論家/ 展覧会プロデューサー 1986年ニューヨーク近代美術館(MOMA)のプロジェクトでNYへ渡る。コンテンポラリーアートを軸に数々のメディアに寄稿。コンサルティング、展覧会企画とプロデュースなど幅広く活動。2007年中村キース・ヘリング美術館の顧問就任。 2015年NY能ソサエティーのバイスプレジデント就任。