第15回 小西一禎の日米見聞録
あなたにとっての2024年は?
日米両国で政権トップが交代した(注:米大統領の正式就任は来年1月)2024年、あなたにとって、どんな1年だったろうか。日本では、元日に石川県・能登地方が震度7の大地震に見舞われ、翌2日には羽田空港で日本航空機と海上保安庁の航空機が衝突。実に不穏な年明けを迎えた。 米国においては、大谷翔平選手のMVP獲得・ワールドシリーズ制覇、真田広之氏がエミー賞を受賞するなど、日本人が大いに活躍するシーンも数多く見られた。
世界のオザワとジョン・ウィリアムズ
国際的に誉れ高い一人の日本人指揮者が2月6日、この世に別れを告げた。「世界のオザワ」と評された小澤征爾。名門・ボストン交響楽団で、1973年から29年間にわたり、音楽監督を務めた。1998年の長野冬季五輪では音楽アドバイザーとして、母国開催に貢献。長年の闘病の末、88歳で死去した。
私が小学校6年生、1984年に行われたロサンゼルス五輪。当時の言葉を使えば、米国や日本を中心とした資本主義国家、いわゆる「西側」諸国にとって、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する米国に追従を余儀なくされた形でボイコットせざるを得なかったモスクワ五輪を挟み、8年ぶりとなる五輪参加となった。
米国チームは、超人ことカール・ルイスが4冠を達成し、女子体操・個人総合では、メアリー・ルー・レットンが笑顔をはじかせ、金メダルを獲得。鮮やかなゴールド・ラッシュを演出した。メモリアル・コロシアムでの開会式で、大空から飛び立った飛行士が見事に着地したシーンを覚えている人も少なくないのではないだろうか。
小2で迎えたモスクワ五輪は、柔道の山下泰裕やマラソンの瀬古利彦、レスリングの高田裕司ら金メダル確実とされた選手が涙ながらに不参加に追い込まれた。私にはマスコットキャラクターの「こぐまのミーシャ」ぐらいしか印象がない。それがゆえに、物心がついて体感したロス五輪は、今でも格別な思いを抱いている。4年後の2028年、3回目の開催となるロス五輪に向けて、積立貯金をしているところだ。
タングルウッドから松本へ
話がだいぶ逸れた。お伝えしたいのは、ロス五輪のファンファーレを作曲した巨匠ジョン・ウィリアムズと小澤との物語だ。印象深い五輪ファンファーレのみならず、スター・ウォーズ、ジョーズ、E.T.、インディ・ジョーンズ、ジュラシック・パーク、スーパーマン、ハリー・ポッターなど、ウィリアムズが作曲した数々の曲は世界中でお馴染みだろう。多くの人は一度でも、どこかで聴いたことがあるに違いない。
駐夫として2017年に渡米するにあたり、数多く掲げた目標の一つとして「タングルウッド音楽祭で、ウィリアムズを生観戦・鑑賞する」をラインナップした。2018年はかなわなかったものの、翌2019年8月24日、マサチューセッツ州の高原にある「聖地」にようやく訪れることができた。
ウィリアムズの公演を前に、緑豊かな広大な地を散策していたところ、目の前に現われたのは「SEIJI OZAWA HALL」。恥ずかしながら、米国における小澤の圧倒的な存在感を初めて知らしめられ、突き付けられた瞬間であった。調べれば調べるほど、次々と出てくる小澤の足跡。ウィリアムズ目当てで訪れたタングルウッドにて、日本人として幾許の誇りを感じたものであり、なかなかに感慨深いものだった。
私が本帰国した後の2023年9月2日。ボストン時代から長年の盟友である、その両者が長野・松本で相まみえたシーンは、タングルウッドでの経験を踏まえ、とてつもなく感動ものだった。ウィリアムズは約30年ぶりの来日。小澤よりも少しだけ年上のウィリアムズは、いつもながらの白い衣装を身にまとい、車いすに乗ったマスク姿の小澤の手を握り合った。お互い、現世における最後の邂逅と認識し合った瞬間が醸し出すシーンは、多くの人々にとって記憶に刻まれたことだろうと確信する。
世界のオザワ逝去で、そんなことを考えた年末。読者の皆様、どうぞ良いお年を!
小西 一禎(こにし・かずよし)
ジャーナリスト。慶應義塾大卒後、共同通信社入社。2005年より政治部で首相官邸や自民党、外務省などを担当。17年、妻の米国赴任に伴い会社の休職制度を男性で初取得、妻・二児とともにニュージャージー州フォートリーに移住。在米中退社。21年帰国。コロンビア大東アジア研究所客員研究員を歴任。駐在員の夫「駐夫」として、各メディアに多数寄稿。「世界に広がる駐夫・主夫友の会」代表。専門はキャリア形成やジェンダー、海外生活・育児、政治、団塊ジュニアなど。著書に『妻に稼がれる夫のジレンマ~共働き夫婦の性別役割意識をめぐって』(ちくま新書)、『猪木道~政治家・アントニオ猪木 未来に伝える闘魂の全真実』(河出書房新社)。