KANYブッククラブ報告: 2024秋
ーー安部公房『箱男』(1973)を読むーー
巽 孝之
(慶應義塾大学名誉教授/慶應義塾ニューヨーク学院長)
2022年 4月より、生徒たちの要望を受けて、ブッククラブを開始した。現代小説の英語だと易しすぎる、もっと歯応えがある文章を読みたいという。
そこで、さっそく私が専門とする 19世紀アメリカ作家ナサニエル・ホーソーン( Nathaniel Hawthorne)の代表作『緋文字』The Scarlet Letter (1850)を選んだ。 2023年 10月にはハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の世界文学的古典『白鯨』Moby-Dick( 1851)を、2024年 2月からは長崎生まれの日系イギリス作家カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』 Never Let Me Go(2005)を取り上げた。
2024年 9月以降は、日本の小説も読みたいという希望が出たため、同年に生誕百周年を迎え、平成初期の逝去に至るまで長くノーベル文学賞常連候補でもあった安部公房(1924-1993)に狙いを定めた。『芸術新潮』 3月号や『現代思想』 11月増刊号では続々と作家特集が組まれ、神奈川近代文学館では10月 12日から 12月 8日まで「安部公房展―― 21世紀文学の基軸」を開催。 7月には鳥羽耕史による本格的な評伝『安部公房――消しゴムで書く』(ミネルヴァ書房)もお目見えした。しかも同年は、映画監督の石井岳龍が『箱男』(1973)を 30年近い歳月をかけて映画化した年にあたる。代表作『砂の女』( 1962)や『他人の顔』(1964)ならば極限状況下の主人公を中心とする物語が一応結構を保っているものの、『箱男』はそもそも誰が主人公なのかという問題を投げかける。安部文学はよくカフカやベケットにたとえられるようにモダニズムの反伝統的実験精神に貫かれているから、もともと不条理を得意とするが、とりわけ『箱男』の場合、視点人物がめまぐるしく移り変わり、語りそのものをめぐって多様な見解が噴出する。当初主人公に見える Aはすでに先行する箱男の影響を受けた男。脱ぎ捨てられた段ボール箱の元住人は B。箱男を脅かす偽医者は贋箱男の C。そして、本筋とは一見無縁なエピソードで主役の少年が D。これだけの視点人物が交錯するのだから多様な解釈が出るのも道理である。ブッククラブには絶好のテクストだと判断したゆえんだ。
本書の主人公はホームレスではない。 1990年代初頭にバブル景気が弾け、一気に蔓延した失業者たちが西新宿に作ったダンボール都市の住民では、ありえない。 1973年に登場した箱男は、れっきとした本職を持ちながらも、ある日突然段ボール箱をかぶってみたら、あたかも透明人間になったかのように、他者の生活を気ままに覗き見できる魅力に抗えなくなった存在だ。ローマ神話の月の女神ダイアナの水浴を覗き見た漁師になぞらえ「アクタイオン・コンプレックス」の物語と呼んでもよい。しかも箱男は増殖する。段ボール箱を脱ぐときには、人類から何か別のものへ脱皮しかねない。箱男とは、個人の水準を超えた種族の名称なのだ。 かくも奇妙奇天烈な存在に対して、嫌悪感のみならず親近感を覚えた生徒諸君もいたのは、興味深い限りである。以下、最も現代的な解読を堪能してほしい。

絶え間なく入れ替わる
横井冴子(YOKOI Saeko, 11年)
読み始めた当初は内容をさっぱり理解することができなかったが、毎日頁をめくって仲間と議論を重ねていく中で、徐々に理解を深めることができた。安部公房の『箱男』は、社会との繋がりを遮断し、段ボールを被った「箱男」が覗き穴から世界を覗いて街を彷徨う物語だ。私は人と一緒にいる時に幸せを感じるため、箱男のように孤独に生きて幸せを感じる考えについてはあまり共感できない。けれどもそんな箱男も、贋看護師との出会いがきっかけとなり、作品の終盤では箱に入るのをほとんどやめて彼女との二人暮らしを謳歌するようになる。してみると、箱男はいったん自ら孤独を選び取ったものの、結局は他人から愛されたり求められたりすることに飢えていたのではなかろうか。
また私は、箱男はダンボールを被っていて匿名性があるため、現代のインターネット社会と繋がる部分があるのではないかと考えた。しかしまったく同時に、箱男は自ら社会から距離をとり匿名性を確保している一方で、好奇心を捨てずに他人の生活を覗き見ているのだから、孤独に徹底しておらず、少し矛盾している気もした。作中では、絶え間なく箱男の中身が入れ替わったり、日記を書く者、覗く者が入れ替わったりしていて、読み解くのに集中力を要した。しかも、たくさんの短編小説を一見無造作にまとめあげたような構成ながら、読み終えて改めて考え直してみると、それら全てが一気に繋がっていく。このことがわかった瞬間には、作者の安部公房を尊敬すると共に畏怖するほかなかった。もし彼が現代に生きていたとしたら、どのような作品を生み出すのだろうかと、想像が膨らむ。
今年は生誕百周年。安部公房ワールド全開の作品を、これからも読んでいきたい。
箱依存症
飯田カンナ(IIDA Kanna,12年)
私も箱に入ってみようかな。
私がこの本を読み始めた時に最初に思ったことだ。
箱に入っていると、箱の外からは中に誰が入っているのか分からない。そして自分ということがバレずに好きなことができ、好きなことを覗き見ることができる。自分でいる必要がないために、今までのいざこざや人間関係から逃げ、現実逃避ができる。だからこそ、依存してしまうのだ。私はこの本を読んで、自分は依存しないだろうと思ってしまう節があったが、考え方を少し変えると、私は既に箱に依存してしまっているのかもしれない。
一旦、箱をインターネットの世界として考えてみることにする。例えば、インスタグラムではアカウントを作り、他の人の投稿を見たり、それと同様自分も投稿することができる。他の人の投稿ではその人の人生を覗き見することができる。そして、動画や写真などにコメントをすることができる。インスタグラム利用者には友達と繋がっているアカウントの他に、裏アカウントを持っている人がたくさんいる。裏アカウントとは、自分の現実の友達と繋がっていないアカウントのことだ。なので、裏アカウントでネットの世界に入ると誰も自分を特定することが出来ないのだ。何を言っても現実の自分とは関係がないということである、今やネッ友と呼ばれるネット上の友達なども容易く作ることができる。そこでは、性格や言動など普段の現実の自分とは全く違っても構わない。ここまでくると、ネットの世界では自分では無い、存在しないもう一つの自分が出来上がっていると言っても過言じゃない。いや、ネットの世界には存在しているから、存在しないとは言い切れないかもしれない。
私は嫌なことがあった時に、YouTubeやインスタなどを身漁ってしまう癖がある。しばらく眺めていると、自分がなんで嫌だったのかも分からなくなっていき動画に見入る。そしてやめ時が分からなくなって、眠くなり寝落ちするまで一日中ネットを見ているがある。これはインターネットという箱に依存してしまっている。箱を舞台にした少し奇妙な話が、少し見方を変えると私の人生を鏡で見たような話にも思えてくる。箱男のように自分を見失う前に、インターネットを控えることを意識しながら生きていこうと思う。

箱女の恐怖
田中海緒(TANAKA Mio11年)
一言で言うと、安部公房の『箱男』は理解するのが難しい本だった。
前半では、まだ内容を理解できていた。だが読み進めるうちに、偽の箱男が何人か登場したり、それによって書き手の視点がころころ変わったりして段々難しくなっていった。本を読み終わってからも多くの謎が残っていたため、解説を読んだ。そこで説明されている書き手の移り変わりの真実に驚いたが、それぞれの話の記述者を知ることで、本の内容をよりよく理解することができた。そのため最初から記述者を知っている状態である今、もう一度読み直したいと思っている。
この本は、誰もが一度は興味を持つ「相手に見られずに覗く」ということを現実化している。登場人物Aは、箱男を見かけてから彼を意識せずにはいられなくなり、箱を被ることに興味を持つ。そこで自分も試しに段ボールの中に入ってみると、そこにひどく懐かしさを感じ、いったん箱から出るも、翌日また箱を被る。そうすると箱の中にいた方がずっと自然で、気が楽なことに気が付く。そしてAは箱に依存し始め、ついにもうひとりの箱男になってしまう。
私はこうした展開を読んで、麻薬を摂取することと箱を被ることは似ている部分があると感じた。麻薬も箱も一度試してみるだけで、はまって中毒になる可能性があるからだ。実際Aは箱を一度被ってから抜け出せなくなってしまった。私自身も、Aが箱男になる過程を読んで、箱を被るのはそんなに快適なものなのかと興味が湧いてしまった。そのため自分が将来箱を見た時にそれを被ってしまい、箱女になるかもしれないと思い少し怖くなった。
箱男は自己評価が低い?
大槻悠凪(OTSUKI Yuna,11年)
「軍医殿が私に見捨てられることを恐れ、引きとめ工作として私と関係を結ぶよう強く奈々に迫るに至った。」
私はこの文からなぜ、軍医殿は見捨てられたくないのかと疑問を抱いた。自分のアイデンティティが奪われていくことや成りすまされることには快楽を感じるにも関わらず、その相手が自分から離れていくことには恐怖を感じること。これは、自分が誰なのかわからなくなる恐怖ではないのか。自分のアイデンティティーを誰かに譲ることに快楽を感じるのに、その成りすましがいなければ不安を感じてしまうメンタリティ。自分そのもののような人間が側におり、その人間が自分のアイデンティティーを引き受けてくれているにも関わらず、その相手がいなければ自分が誰かわからなくなってしまうのだ。それは、自分を失う怖さを彼なりに感じている証拠ではないだろうか。
本全体を通して感じたのは、人と人とが依存し合っている話なのではないかということだ。さらに一歩踏み込めば、アイデンティティーとアイデンティティーが依存し合う物語とも言える。自分から進んでアイデンティティーを譲った軍医殿も、その相手に依存する。結局は自分のアイデンティーを人に譲りたくなかったのではないか。
しかし、なぜ人は何かに依存するのだろうか。調べてみたところ、人間は自己評価の低さから依存するのだとわかった。奈々という妻もいながら、軍医殿も実は自分に自信がなかったのだろう。誰かが自分のアイデンティティーを失ってでも軍医殿のアイデンティティーを引き受けることで、軍医殿の自信が保証されていたのだと思う。
『箱男』を読んで人と人の依存について考えさせられた。人は結局誰かに受け入れてもらいたいのだ。人に受け入れてもらうことでしか自信を持てない人間が大半の世の中でお互いをどのように満たし合えるのかが、人間の難しい点である。
(記事、写真提供:慶應義塾ニューヨーク学院)
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