人身売買の被害者が語る「奴隷として生きた私の半生」 両親を恨んだ日々、真相は…。

 【1日付ニューヨークポスト】アフリカ西部のリベリアで、教師の母親と警官の父親の下に生まれたファマッタ・マッサレーさんは8歳のころ、「いつか雪を見てみたい」と夢見ていた。ある日、母親から「ゲームをしたらもうすぐ見られるよ」と告げられた。マッサレーさんは言われるがまま、自分のものではない名前を書く練習をさせられ、「大人には自分の年を10歳と言いなさい」と言われた。その後、行ったことのないビルで手続きを済ませ、数日後に空港に向かった。人生の冒険が始まる、と興奮してニューヨーク市のJ・F・ケネディ空港行きの飛行機に乗った。1978年の1月だった。
 ニューヨークに着くとすぐ、マッサレーさんの夢は打ち砕かれ、悪夢と化した。住み込みで家事や雑用を手伝う現代版の奴隷、「ハウスガール」として、売られたことに気付いたのだ。
 その後6年間、マッサレーさんは知らない人に殴られたり蹴られたりしながら炊事や洗濯、育児の手伝いをさせられた。言われた通りにできないと暴力を振るわれ、食事も満足に与えられなかった。夜は疲れ切って、寝床にされていたバスタブで寝た。
 両親には恨みしかなかった。「私がこんな目に遭っているのに、どうして夜、寝られるのだろう」。泣きながら祈る日が続いた。「何度も逃げ出したいと思ったが、どこに行けば良いか分からない。知っている人は誰もいない。友だちもいない。子どもには何の力もないと知っていた。だからあの家に残るしかなかった」
 10歳から学校に通うことを許されたが、黒人は自分1人。発音や服装もからかわれ、「国に帰れ、ニガー」と毎日罵声を浴びた。13歳のころレイプされ、14歳の誕生日に娘を出産した。このとき初めて「もう我慢できない」と決意、母子2人で養護施設に向かった。マッサレーさんは「アメリカで子どもを産めば、法的に守られる。やっと光が見えた」と、当時のことを振り返る。人生を変える選択だった。
 その後、マッサレーさんは両親がだまされていたことにも気付いた。人身売買組織は、教師と警官という教養のある両親に目を付け、「リベリアでは受けられない教育を、アメリカなら受けられる」などと言って金を払わせ、マッサレーさんを連れてきたのだという。
 自分と同じ悪夢を誰にも繰り返してはならない、マッサレーさんはリベリアで人身売買の啓蒙団体を設立。両親の名前から、「ジェイコブ&セリーナプロジェクト」と名付けた。
 人身売買の根絶を目指す非営利団体、ポラリスプロジェクトによると、世界中で現在、1420万人がマッサレーさんのように現代版奴隷として酷使されている。ニューヨーク市にも数百人いるという。
 マッサレーさんは、「自分の経験を伝えることで、1人でも多くの人を救いたい」と話している。

マッサレーさん。
本人のリンクトインより

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