リンカーン、FDR、JFK、オバマ、そしてトランプまで党派や政治理念を超えて合衆国の大統領たちから等しく愛されてきたブルックスの洋服。建国以来、米国精神の根幹を成してきた民主主義は今ここにきて、大きく揺らいでいるが、ブルックスの築いた米国紳士服のスタンダードは、時流に流されずむしろ盤石だ。
シャツの革命
南北戦争が終わり平和な時代になると米国に工業化・産業化の大波が押し寄せた。ブルックスもすかさず軍服から民生用にコンバート。ビジネスウエアの先駆者としてさまざまな新しいイノベーションを打ち出す。
例えば、ボタンダウンのシャツ。今ではあまりにもありふれていて空気のような存在だが、そもそもはブルックスの創始者から3代目に当たるジョン・E・ブルックス(1844〜1913年)の発明である。1896年、英国を訪問中にジョンはポロ競技の選手たちがシャツの襟をボタンで留めているのを目にした。試合中に襟が風でめくれるのを嫌っての措置だったのだろう。ジョンは米国に戻ると早速、このアイデアを自社のシャツの新しいスタイルとして起用。柔らかく通気性があり丈夫なオックスフォード生地を使って製品化したところ爆発的に売れた。
新型ワイシャツ「ボタンダウン」(別名ポロカラー)の誕生によって、硬くて高さがあり取り外しのできる襟の時代が終わりを告げた。ブルックスのボタンダウンは「ファッション史上最も模倣されたアイテム」とまで言われた。
あの人も着ていた! ブルックスのコート
ボタンダウンでブランドイメージを世界的に確立した5年後、同社のニューヨーク・ブロードウェー本店=当時=でフロックコートを試着する1人の日本人紳士の姿があった。外務大臣、小村寿太郎(1855〜1911年)だ。日露戦争の終戦交渉のために全権大使としてポーツマスの講和会議に向かう途上である。
50歳目前だった小村の身長は156センチメートル。対する交渉相手のロシア全権ウィッテは180センチメートルを超える大男。困難が予想される交渉で圧倒されないためには、見栄えが重要だ。大臣が歴代米国大統領御用達のブルックスのコートを迷わず現地調達した気持ちはよく理解できる。
小村寿太郎という人は大変優秀な外交官で、清国代理公使を手始めに駐英、駐米公使を歴任。日清戦争の講和条約締結にも貢献したのだが、その下関条約調印の際に清国の政治家、李鴻章(り・こうしょう)に宴席で「背の低さ」を揶揄された経緯がある。もしかしたらそのときのトラウマが大臣をブルックスに走らせたのかもしれない。
幸か不幸か、はたまたブルックスのコートのせいか日露交渉は日本に有利な結果をもたらし、「戦勝国」日本はそこから調子付いて軍国主義と植民地主義へ一気に突き進むわけだが、列強に肩を並べた、日本の時の外務大臣がニューヨークで買ったブルックスを着ていたというのは何とも意味深い。
ちなみに、このフロックコートは小村の故郷、宮崎の博物館が大切に保管しているが、新宿の文化学園服装博物館で現在開催中の「ブルックスブラザーズ200年展」(11月30日まで)に展示されている。裏地のラベルにはBROOKS BROTHERS BROADWAY NEW YORK とあり、Mr.G Komura 7/25/05と手書きで署名されているから、間違いなく特別に仕立てたものである。日本に現存するブルックス製品ではおそらく最古のものだそうだ。
(つづく)
*写真は東京・文化学園服飾博物館で開催中の「ブルックスブラザーズ200年展」より。撮影協力:ブルックスブラザーズ・ジャパン
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Brooks Brothers
1818年創業の米国最古の衣料品メーカー。No1サックスーツ、ボタンダウンシャツ、ポロスーツなど同社が生み出したスタイルは紳士服の歴史に革新的な影響を与えてきた。歴代の大統領に愛用され、フレッド・アステアのダンス映画から最近の「華麗なるギャツビー」までハリウッド映画でも多数起用されるなど、米国服飾界のスタンダードとなっている。マジソン街本店を中心に米国内では210店舗を展開(2015年現在)。日本では1979年に海外店舗第1号店として東京に青山店をオープン、現在75拠点80店舗を展開中。
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取材・文/中村英雄 映像ディレクター。ニューヨーク在住26年。人物、歴史、科学、スポーツ、音楽、医療など多彩な分野のドキュメンタリー番組を手掛ける。主な制作番組に「すばらしい世界旅行」(NTV)、「住めば地球」(朝日放送)、「ニューヨーカーズ」(NHK)、「報道ステーション」(テレビ朝日)、「プラス10」(BSジャパン)などがある。