1858(安政5)年の日米修好通商条約に初の駐日米国総領事として調印したタウンゼンド・ハリス(1804〜78年)は、ニューヨーク州出身かつニューヨーク市で活躍した生粋のニューヨーカーだ。
そもそもは陶器の輸出入業者だったハリスは、大学教育こそ受けていないが、膨大な知識と教養の持ち主で、ベンジャミン・フランクリンばりの合理主義者だった。
フリーアカデミーの夢
陶器商としてそこそこの成功を収めたハリスは、リベラルな民主党員でもあり1840年代になると、社会貢献への情熱を募らせる。当時、誰もやりたがらなかった教育委員を率先して務め、1846年にはニューヨーク市教育委員会の委員長に選出された。就任間もないハリス委員長は、猛烈なスピードで教育改革に乗り出す。敬虔なキリスト教徒でありながらも、「ガチガチな」教会権威主義とは一線を画すハリスを、周囲は「反聖書分子」と呼んで敬遠した。しかしそれをものともせず、彼が目指したのはフリーアカデミー、つまり授業料ゼロの貧困層のための高等教育機関の設立である。
同年7月、ハリスは早速、第1回の委員会例会を招集して、州の教育基金の一部をこうした無償大学教育に充ててはどうかと発案。翌1847年1月の第2回例会では、予算配分の明細などのデータ付きでアカデミー設立のための計画書を提出した。文中で既存のコロンビア大学とニューヨーク大学が教育基金の分配を受けすぎていると批判したため、新聞の社説でさまざまな論評が上がった。特にモーニングクーリエ&ニューヨークエンクワイヤ紙上で繰り広げられたペンネーム「正義(Justice)」vs.「明白な事実(Plain Truth)」の論戦は白熱を極めた。
市民を説得し尽くして建学
エリート階級の子弟向けで、非実用的な神学や法学を頂点とする旧態の大学を支持する「正義」は、「コロンビア大もニューヨーク大も市内の商人からの寛大な寄付によって成り立っており、多くの学生が学費免除で入学している。事実上、無償教育は実践されており、これ以上推し進めることは市民に税金の負担を強いることになるので必要ない」と主張。対して、「明白な事実」は、ニューヨーク大の無償学生の半数が永代奨学金制度(親が大学に当時の金額で1500ドルを寄付することと見返りに、その子弟が無償で入学できるという措置)の恩恵を受けた富裕層の学生たちである事実を突きつけて反論。また、上記2大学が「エリート向け学問に執着し、社会に本当に必要な実際的科学の教育をないがしろにしている」と厳しく批判した。
当時の新聞といえばメディアの王様で、各紙の紙面をにぎわす社説や投稿は自由で民主的な意見を闘わせる公正なプラットフォームだった。両者の議論はニューヨーク市民全員の関心の的となり、フリーアカデミーの設立に関しては教育委員会のみならず新聞各紙上で運営費や運営形態の詳細まで議論が尽くされた。データや合理的な論法で鮮やかに論破する「明白な事実」が次第に優勢となり、世論も委員会もフリーアカデミー設立の支持に傾くが、「正義」が代表する保守派も最後まで論調を譲らないまま、住民投票を迎える。
実は後年の文体研究から「明白な事実」の正体はほぼ間違いなくハリス本人だろうと結論されている。投票直前、ハリスは最初にして唯一の記名投稿をニューヨーク・ジャーナル・オブ・コマース紙に送り、フリーアカデミーの存在意義と運営計画を熱く訴えた。
そして、1847年6月7日。いよいよ市民投票が実施される。結果は、賛成1万9305票、反対3409票。
ハリスの提案は圧倒的な支持を市民から受けた。民主派で最初からハリス支持だった新聞デイリーグローブは、興奮気味にこう書き立てている。
「今や一機械工がアメリカ大統領になれる教育制度が実現する。貧民や農民にも能力さえあれば、高度の教育を受けて特権階級の子弟たちと同等の前途が開かれるのだ」
1849 年1月29日、レキシントンアベニューと23丁目の角に校舎が落成し、第1期生143人を迎える入学式が開かれた。この学校こそが現ニューヨーク市立大学(CUNY)の母体となるのだが、ハリスの教育行政官としての使命はここで完遂。委員長の座を潔く後任のロバート・ケリーに譲ったハリスは、45歳という年齢も何のその、次の夢へと踏み出していた。
(つづく)
取材・文/中村英雄 映像ディレクター。ニューヨーク在住28年。人物、歴史、科学、スポーツ、音楽、医療など多彩な分野のドキュメンタリー番組を手掛ける。主な制作番組に「すばらしい世界旅行」(NTV)、「住めば地球」(朝日放送)、「ニューヨーカーズ」(NHK)、「報道ステーション」(テレビ朝日)、「プラス10」(BSジャパン)などがある。