透けて見えるIOCという巨大組織のおごり
10月19日、時事通信は「体面保ちたいIOC=はしご外された組織委-マラソンと競歩札幌移転案」とする記事を配信した。
この記事は、おしなべてIOCに批判的で、記事の後半で次のように述べていた。
《組織委の森喜朗会長は「バッハ会長は(ドーハと)同じことが東京で起きたらIOCと東京大会が批判の渦に巻き込まれると考え、決意した」と明かした。IOCが札幌開催案の根拠とするのは「アスリートファースト」。酷暑の下でレースをするよりはいいに違いないが、IOCが大切にしたかったのは、むしろ体面ではないのか。札幌開催の「提案」はあまりに一方的だった。錦の御旗の「アスリートファースト」を掲げれば誰も文句は言えない、という巨大組織のおごりが透けて見える。》
たしかにその通りだろう。これまでの五輪報道を見ていると、「アスリートファースト」という言葉がひっきりなしに使われてきた。アスリートを尊重しなければ五輪はできない。しかし、それ以上に尊重すべきは、五輪を支える開催都市の市民(税金を払っている)、観客たち(チケットを買っている)ではないだろうか。
バッハ会長は強権的な人間なのか?
スポーツ評論家の玉木正之氏は、「文春オンライン」でのインタビュー記事で、次のように述べていた。
《この異例の決断を理解するため、押さえておきたいのはオリンピックを主催するのはあくまで「IOC」であり、「東京都」でも「日本オリンピック委員会(JOC)」でもないということです。東京都はあくまで場所を提供して協力するだけ。すべての判断は、東京五輪の準備状況を監督するIOC調整委員会のジョン・コーツ委員長を経由して、IOCの許可がないとできません。日本の組織委員会の最大の仕事はIOCとの協議といわれるくらいです。》
《主催者が意思決定をする以上、日本には従う以外の選択肢はありません。日本ができることは、会場変更にともなう経費をIOCに負担してくれと頼むことくらい。大混乱することは間違いないですから、せめてバッハ会長は観客に対して謝罪するくらいしてほしいですよね。》
さらに、今回のことを「バッハ会長自身のキャラクターと結びつけるのは間違っています」とし、会長がドイツ人で元フェンシング選手であることを前提として、次のように述べた。
《(バッハ会長は)「調和と多様性」をモットーにして、2032年の南北共催のオリンピックを目指す文在寅大統領と会談をするなど、彼はこれまでも対話を重視する姿勢をとっており、特段“強権的”な人ではありません。
そもそも、このバッハ氏をIOC会長に推薦したのは日本なんです。レスリングがオリンピック種目から外される可能性が出てきたとき、東京での五輪招致をしていた日本は“お家芸”を守るため、「レスリング残留」に前向きだったバッハ氏をIOCの会長に推薦しました。当時「レスリングの五輪競技残留」「東京五輪の招致運動」、そして、「バッハ氏の会長推挙」は、一体となって進められていたのです。》
これでは、なにがあろうと、IOCの決定に従うほかない。それにしても、IOCはなぜこれほどまでの力を持っているのだろうか?(つづく)
【山田順】
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。
主な著書に「TBSザ・検証」(1996)「出版大崩壊」(2011)「資産フライト」(2011)「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)など。近著に、「円安亡国」(2015)「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。
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