連載573 山田順の「週刊:未来地図」コロナワクチン誕生秘話(1) 誰も注目しなかった女性科学者の研究(中)

連載573 山田順の「週刊:未来地図」コロナワクチン誕生秘話(1) 誰も注目しなかった女性科学者の研究(中)

 

mRNAは必ず医療に役立つと注目する

 mRNAワクチンがなぜできたか? また、なぜ、こんなに早く製造できたのかを見ていくと、1人の女性科学者に行き着く。その女性科学者とは、ハンガリー人のカタリン・カリコ(Katalin Karikó)博士だ。

 ワクチンに関しての報道が洪水のようにされているなか、彼女に関しての報道は、日本では本当に少ない。数えるほどの記事しかない。先月、NHKが「クローズアップ現代」で、山中伸弥教授による彼女のインタビューを放映したが、それがいままでいちばん大きな報道だった。

 そこで、ここからは、欧米の報道をまとめるかたちで、カタリン・カリコ博士について述べていきたい。

 mRNAの存在を最初に指摘したのは、フランス人の生物学者ジャック・モノーとフランソワ・ジャコブだった。2人は1965年にノーベル生理学医学賞を受賞している。その後、この研究を引き継いで、アメリカの遺伝生物学者のマシュー・メルセンが、mRNAの存在を実証した。

 彼らの功績は、DNAに書かれた情報がmRNAを介してタンパク質の合成にいたる分子レベルの仕組みを解析したことだった。

 この仕組みに注目したのが、カタリン・カリコ博士だった。彼女はこの仕組みを利用すれば、必ず医療に貢献できると考えた。mRNAを細胞の中に送り込むことさえできれば、どんなタンパク質でもつくらせることが可能だから、たとえば、体が必要とするタンパク質をつくらせる。あるいは、ウイルス、細菌が持つタンパク質をあえてつくらせれば、そのタンパク質に対する免疫をつくることも可能だと考えたのである。

 ただし、この時点で彼女がもっとも注目していたのは、がん治療だったという。しかし、彼女の発想は当時としては、あまりにも突飛だったので、ほとんど誰からも相手にされなかった。また、研究しようにも、その予算すらつかなかった。

40年間も報われなかったmRNA研究

 1955年生まれ、今年で66歳になるカリコ博士は、ハンガリーの首都ブダペストから東におよそ150キロ離れた地方都市ソルノクで生まれ、近隣のキシュウーイーサーラシュ市で育った。実家は精肉店を営んでいた。

 非常に優秀な学生で、奨学金をえて国立ヨージェフ・アティッラ大学に進学し、1978年に博士号を取得して卒業。その後、ハンガリー科学アカデミーの奨学金により、地元の研究機関で研究員として働いたが、研究資金が打ち切られたことから1985年、夫と娘の3人でアメリカに渡った。

 彼女が渡米を決意したときのハンガリーは、まだ社会主義国家だった。そのため、通貨の持ち出しも制限がかかっていたため、彼女は2歳の娘のクマのぬいぐるみの中に全財産の900ポンドを隠して、アメリカに渡ったという。

 渡米した彼女は、ペンシルベニア州のテンプル大学やユーペン(ペンシルベニア大学)で研究員や助教授として働き、mRNAの研究に没頭した。

 しかし、研究成果はなかなか評価されなかった。研究費も削られることがしばしばだった。そんななか、彼女はユーペンの研究室でコピー機を使う際に言葉を交わしたことがきっかけで、当時、HIVのワクチン開発の研究をしていたドリュー・ワイスマン教授と知り合った。そして、2005年に、今回のワクチン開発に道をひらく画期的な研究成果を共同で発表した。

 しかし、これもほとんど注目されなかった。

 こうして、2010年にはmRNAの関連特許を大学が企業に売却してしまい、彼女の研究は事実上、頓挫してしまった。彼女の研究は、40年間も報われなかったのである。

(つづく)

 

【山田順】
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。
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