連載877 先進国から転落中の日本の「辺境、あるある」 (中3)

連載877 先進国から転落中の日本の「辺境、あるある」
(中3)

(この記事の初出は9月20日)

 

誰一人取り残さないデジタル化の“愚”

 もはや書き飽きたが、日本のデジタル化の遅れは、致命的である。世界中が「デジタルエコノミー」に移行したいまも、1国だけ「ペーパー(紙)エコノミー」をやっている。マイナンバーカードが奨励されているが、その申請手続き、交付、受け取り等、すべて紙ベースである。
 なにしろ、鳴り物入りで設立されたデジタル庁が、高齢者向けにパソコン、スマホ教室をやっているのだから、情けなさを通り越して涙さえ出てくる。政府や社会のデジタル化、DX化(デジタル・トランスフォーメンション)と、デジタル教育はまったく別の話ではないだろうか。 
 デジタル庁発足時のスローガンは「誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化」だった。これを言った時点で、終わっている。社会がデジタル化していくプロセスで、それに適応していくのは、個人個人がすることだ。電車に乗り遅れる人をいつまでも待っていたら、電車は動かない。
 そうは言っても、日本のデジタル自体が壮大な無駄で、システムは使えないものばかりだ。マイナンバーにしても使い勝手が非常に悪い。いまだに、街のクリニックでは受け付けてもらえず、「保険証をお願いします」と言われる。
 これは、日本の公官庁や企業が、「縦割り社会」だからだ。縦割りごとにベンダー丸投げのデジタル化が行われたため、互換性のない個々別々のシステムができあがってしまった。
 デジタルの利便性は、たとえばカード1枚で、なんでもできることだ。しかし、システムとシステムが紐付いていないので、結局はないもできないのである。
 日本では、12省庁、47都道府県、1718市町村が、それぞれバラバラにシステムを開発してきた。そのため、結果的に、全体では機能しなくなってしまった。マイナンバーがその典型である。
 これを解消するには、初めからやり直すしかない。


宿題は紙、タブレット、PCが使えない

 デジタル化の遅れでもっとも辺境化しているのが、日本の教育だろう。コロナ禍が起こって間もなく判明したのが、日本の学校ではオンライン教育ができないとうことだった。
 十年以上前から「ITC教育の重要性」が叫ばれてきたが、それは言葉だけ。黒板、チョーク、ノート取りという授業がいまもなお行われている。
 テストも通信簿も宿題も、すべて「紙」ベースである。アメリカの学校では、学校のアプリで宿題をやり、生徒たちは自分のPCやタブレットで「google classroom」や「google docs」などを使って宿題をやっている。
 タブレットやPCは重要なツールだ。日本の2人以上の家庭におけるPCの普及率は8割を超えているが、それはただ持っているというだけ。捨て損なった時代遅れのPCが家にあるにすぎない。
 いまや、コミュニケーション、ゲームなどのエンタメはスマホやタブレットで行い、ビジネスやリサーチ、知的活動はPCで行うという住み分けの時代になった。ところが、日本ではスマホ一辺倒なのである。
 繰り返された緊急事態宣言により、日本のオンライン授業の実施率は、コロナ禍前の13%から51%に増加した。しかし、アジアの他の国に比べて圧倒的に低い。インド、香港、インドネシア、フィリピン、マレーシアなどは、実施率が70%を超えている。中国、韓国にいたっては、実施率が90%を超えている。
(つづく)

この続きは10月26日(水)発行の本紙(メルマガ・アプリ・ウェブサイト)に掲載します。 

※本コラムは山田順の同名メールマガジンから本人の了承を得て転載しています。

山田順
ジャーナリスト・作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。
立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。「女性自身」編集部、「カッパブックス」編集部を経て、2002年「光文社ペーパーバックス」を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、作家、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の双方をプロデュース中。主な著書に「TBSザ・検証」(1996)、「出版大崩壊」(2011)、「資産フライト」(2011)、「中国の夢は100年たっても実現しない」(2014)、「円安亡国」(2015)など。近著に「米中冷戦 中国必敗の結末」(2019)。

 

 

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