浅沼(Jay)秀二シェフ 世界の食との小さな出逢い 第3回アジサイの咲く国で

アジサイの咲く国で

 日本を訪れた時の話。
 「訪れた」。この表現はちょっとおかしいかもしれない。自分が生まれた国なのだから。でも人生の半分をこの国以外のところで過ごしてきた者にとって、日本はどこか遠い存在になってしまっている。
 知り合いもあまりいなくなってしまったが、川崎には15歳ほど離れている叔母がいる。ぼくが生まれた時叔母は中学生だったので、ずっと「お姉ちゃん」と呼んでいる。いつも変わらず優しい叔母だ。そのお姉ちゃんに誘われてあじさいの咲く寺へ行ってみることにした。妙楽寺という。雨上がり、梅雨空の広がる午後のことだった。
 幾重に連なる丘をアップダウンしながらの散歩。時折現れる梅畑。熟れた実が転がっている雨に濡れた土。放っておくのならひと抱え持ち帰ろうかという衝動に駆られつつ、気が引けながら拾う土のついた青い実ひと粒。道草は大人になっても楽しい。
「これ甘くて美味しいよ」
道端の紅いベリーを指差してお姉ちゃんが教えてくれる。背伸びしてもぎ取った実を口に入れると甘酸っぱさが口に広がる。まるで小学生の帰り道の時のよう。小さな黄色い長靴は雨の日もまっすぐ家には向かわなかった。
 歩いているとアジサイの色が目に飛び込んでくる。淡い紫、白、濃い青…アジサイは一足先に夏の空を濡れた地上に映し出す。そしてどの花も美しい。
 ぼくらは坂を登っては立ち止まって道端のアジサイに見入った。そして坂の上を見上げ、次のアジサイへ向かう。次第に川沿いの街が眼下に広がる。ちょっとした満足感。そしてまた登る。
 アジサイの寺はひっそりとしている。境内に着くと陽が少し差し始めた。木洩れ陽を集めた水玉がキラキラと光っている。そしてアジサイの葉っぱの上をコロコロと転がり石畳にこぼれていく。階段を登って周りを見ると、いつの間にかアジサイに囲まれていた。雨に濡れたアジサイが木洩れ陽の中で力いっぱい咲いている。帰ってきんだ、自分の生まれたこの国に。
 夕方、お姉ちゃんがスーパーで小魚を買った。素揚げして南蛮漬けにしてみる。庭に咲いているアジサイのひと花を切って添えた。雨は止んでいる。薄紫の花から転がった水玉が焼締の器にこぼれた。お姉ちゃんは美味しいねと微笑んだ。

イラスト 浅沼秀二


浅沼(Jay)秀二
シェフ、ホリスティック・ヘルス・コーチ。蕎麦、フレンチ、懐石、インド料理などの経験を活かし、「食と健康の未来」を追求しながら、「食と人との繋がり」を探し求める。オーガニック納豆、麹食品など健康食品も取り扱っている。セミナー、講演の依頼も受け付け中。
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