アートのパワー 第5回 二人のアジア系アメリカ人の女性(下) 三世:ノブコ・ミヤモト(後編)
18歳のミヤモトは、ブロードウェイ・ミュージカルに出演するため、一人でロサンゼルスからニューヨークにやってきた。ブロードウェイ・ミュージカルのダンサーに求められるレベルはそれまでとは比べものにならない厳しさだった。数少ないアジア系、そして白人ではない舞台俳優やダンサーとの出会いを通じて彼女のアイデンティティ意識も高まった。『フラワー・ドラム・ソング』は成功を納め1年間続いた。他の出演者には驚かれたが、ミヤモトはロンドン公演での出演を断った。
彼女は、このミュージカルの歌の一つ、「チョップスイ(Chop Suey)」が気に入らなかった。本格的中国料理には存在しないアメリカ人好みに作られたもので、自分もそうではないかと、他のキャストメンバーとの会話で認識したのだった。ロスに戻り、黒人の公民権運動に賛同するようになった。キング牧師は白人専用レストランに座り込み、逮捕されている。自分はいかに肌の色の境界線を超えられるか、と21歳のミヤモトは考えた。
新しい傾向のミュージカル、レナード・バーンスタインの『ウェストサイド・ストーリー』が映画化されることになり、ミヤモトはラテン系キャストの役に応募した。シャーク団のダンサー役のオーデションに受かった。振り付けは、子供の時に厳しい指導を受けたジェローム・ロビンズであった。映画は大ヒットで10部門のアカデミー賞を受賞した。ミュージカルや映画界でトップレベルまで登っていながら、それでもミヤモトにはステレオタイプの仕事しか回ってこなかった。
1960年、ジョンF. ケネディがアイルランド系アメリカ人としてアメリカ初の大統領 になった。黒人の公民権運動やヴェトナム反戦運動などで、社会環境の認識が変化し始めていた。ミヤモトはそれまで自分を重ねて共感できる歌がなかったことに気付き、これらの運動を背景に歌を自作するようになった。Yellow Pearl やWe Are Your Children などである。名前も、ジョーアン・ミヤモトからノブコ・ミヤモトに改めた。ノブコという名前に戻ることに自分のアイデンティティを求めた。その後、自分のそれまでの知識や経験、社会的・政治的な課題を取り上げ、ダンス、歌、演劇を合わせて新たな表現を追求していった。そのうちのひとつ、「ファンダンゴお盆」は、11月2日メキシコの死者の日 (Day of the Dead)に開催した。ベラクルスのメキシコ原住民とアフリカの音楽やダンスに日本の盆踊りを融合させたお祭りで、日本人街のプラザで行われ、人種の一致団結を目的としている。
2021年に発行された「Not Yo’ Butterfly – My Long Song of Relocation, Race, Love, and Revolution」と CD 「Nobuko Miyamoto 120,000 Stories」はミヤモトの人生の旅を語る。「あんたの蝶々でない」は、もちろん蝶々夫人を指している。2022年2月20日、ミヤモトはロスのゲティ・センターで「120,000 Stories」コンサートを開いた。1942年2月19日にルーザベルト大統領が日系アメリカ人強制収用を実行させた大統領命令9066号に署名してから80年になる。12万(120,000)は、収容所に入れられた日系人の数である。このような場所で、2歳の時の重大な事件を自己の表現として、ここまで辿りついた彼女のパワーには感銘する。
2022年のアンナ・メイ・ウオンの25 セント記念硬貨、ノブコ・ミヤモトの自伝とCDが2021年に発行されたこと、2022年のゲティ・センタでのコンサートは、アジア系アメリカ人女性が長い年月をかけアートを通して築いてきたパワーである。(了)
アートのパワーの全連載はこちらでお読みいただけます
文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)
アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。