奴隷解放後、南部ではジム・クロウ法(人種隔離法)による権利のはく奪が進んだ。偏見に満ちた農業主体の南部州から抜け出して、産業革命が進んでいた北部都市や中西部へと、大勢の黒人がより良い暮らしを夢見て移住した(約100万人以上が移動したといわれ、「Great Migration(アフリカ系アメリカ人の大移動)」と呼ばれている)。中でも特に知識人や文化人が集まったのがニューヨークのハーレムだった。
ハーレム・ルネサンスは、第一次世界大戦後から第二次世界大戦前の期間とされている。文字を習うことも違法であった親・祖父母の時代から脱却し、文学、音楽、芸術などにおいて、知性ある「ニュー・ニグロ(New Negro、新しい黒人)」としての人種的誇りを明確に打ち出した動きの中で、ハーレム・ルネサンスと呼ばれる唯一無二の文化が生まれた。
ハーレム・ルネサンスの名づけ親と言われるアラン・ロックAlain Locke 1885-1954は、「新しい黒人」について、人種とは遺伝の問題ではなく、社会と文化の問題なのだと説いた。ハーバード大学で哲学を学び、ローズ奨学金を得た初の黒人となりオックスフォード大学に入学、後に ハーバード大学で博士号を取得し、ハワード大学(1867年創立、歴史的黒人大学。アフリカ系アメリカ人がハーバード大学に入学できなかった時代の「黒人のハーバード」)で哲学教授を務めた。W.E.B.デュボイス 1868-1963は、ハーバード大学で博士号を得た最初の黒人で、アメリカの公民権運動に大きな影響を与えた全米黒人地位向上協会(NAACP)を1909年に結成したメンバーの一人である。著作活動を通じてアフリカ系アメリカ人の芸術的な創造性を称賛し、ハーレム・ルネサンスの初期に黒人が創造的な活動から遠ざけられていた長い休眠期間が終わったと称えた。
ラングストン・ヒューズLangston Hughes 1901-1967は、詩人、社会活動家、小説家、劇作家、コラムニストであり、ハーレム・ルネサンスの指導者として一番良く知られている。ヒューズ はコロンビア大学に入学したが、1922年に退学。大学では黒人であることを理由にキャンパス内の部屋への入居を拒否されたり、WASPのカテゴリーに当てはまらない者を敵視する同級生らの人種差別を受けた一方で、彼の関心は勉強よりもハーレムの住民やコミュニティに移っていた。退学後は船員となり西アフリカ・ヨーロッパを訪れ、パリ、ロンドンに短期間滞在した後、帰米し、1926年ペンシルバニア州にある米国で最初に設立された歴史的黒人大学リンカーン大学に入学、29年学士号を取得後、ニューヨークに戻る。ヒューズの人生と作品は、1920年代のハーレム・ルネサンスに多大な影響を与えた、中でも1926年にThe Nation誌に発表したエッセイ『黒人芸術家と人種の山 Negro Artist and the Racial Mountain』では、「 今、創作に携わっている我々黒人アーティストは、恐れたり恥じることなく、それぞれの皮を被った自分を表現するつもりだ。我々は、明日のため、己が知る限り強固な神殿を築き上げ、山の頂上に立ち、自己を解き放つ(自分になる)のである」と宣言した。
2024年3月21日付NYタイムズ紙に掲載された記事『Dinner Party that Started the Harlem Renaissance 』は、今から100年前にダウンタウンにあるシビック・クラブCivic Clubで開催された晩餐会の様子を次のように伝えている――「黒人と白人が女性も含めて一緒に食事ができる、市内で唯一のプライベート・クラブ」であり、「アフリカ系アメリカ人の知識人と著名な白人リベラルが集うNYの上流階級のクラブ」であるシビック・クラブで、アラン・ロックと社会学者兼当時の著名な黒人雑誌Opportunity誌の創刊編集者チャールズ・S・ジョンソンが晩餐会を主催した。出席者は100名、目的は、注目に値する才能のある黒人作家や作家志望者らに進歩的な考えを持つ白人出版社との出会いの場を提供することだった。こうしたイベントを企画したアフリカ系アメリカ人編集者等の努力によって、10年後には黒人作家による40冊以上の小説、ノンフィクション、詩集等が出版された。「その作品群は、アメリカ文学の風景だけでなく、地域社会をも一変させるものだった。」
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文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)
アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。