すべてはここから始まった、疎開の地・日光

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共同通信
日光田母沢御用邸記念公園を散策される上皇ご夫妻=2024年5月、栃木県日光市

 平和を願い、国民に寄り添う。上皇さまが在位中に貫かれた姿勢の原点とされる場所がある。

 栃木県日光市。戦中、政府が進めた学童疎開は小学5年だった上皇さまも例外ではなく、1944年7月から終戦後しばらくまでをここで過ごした。

 あれから80年。上皇さまは、同じく疎開経験がある上皇后美智子さまと、忘れられぬ地を訪ねた。(共同通信=志津光宏)

 ▽厳しい生活

 上皇さまの疎開先は日光田母沢御用邸だった。現在は記念公園として建物や庭が公開されている。

 関係者によると、食事や勉強の合間にこまで遊ぶこともあったという。

 空襲が激化した戦争末期、政府は皇太子だった上皇さまの身の安全を守るため、学習院初等科の同級生と共に疎開させた。

 上皇さまは御用邸近くの東大大学院付属植物園日光分園に通い、近くのホテルで暮らす同級生らと授業を受けた。

 1945年7月、宇都宮市が空襲に遭うと、奥日光の「南間ホテル」(廃業)に移った。「『遠足』と称し、食べられる木の実を一緒に集めたこともあった」(学友)。生活は厳しかったという。

 ▽戦争を肌身で

 8月15日。父昭和天皇がラジオで終戦を告げた「玉音放送」をホテルの一室で聞いた。

 放送直後の上皇さまの様子を、学友は「何も語らなかったが、真剣な表情だった」と振り返る。

 帰京は11月だった。原宿駅に降りると、一面焼け野原。翌年、正月の書き初めで「平和国家建設」と、力強く記した。

 芽生えた平和への思いは、戦後の節目に「慰霊の旅」などで示されてきた。

 今回の日光旅行も当初の計画は戦後70年の2015年。災害や体調不良で延期が続いたが、中止にはしなかった。

 「少年期に戦争を肌身で感じた忘れられない場所」と側近。5月28日、旧御用邸に足を運んだ上皇さまは、自らも逃げ込んだ防空壕の跡地が残る庭を、上皇后さまと歩き、懐かしんでいた。

終戦前、疎開先の栃木県・日光で学習院初等科の級友たちと整列される上皇さま(手前)=1945年
疎開先の栃木県・日光で、船の模型で遊ばれる上皇さま(右)と常陸宮さま=1944年(宮内庁提供)
栃木県日光市の旧日光田母沢御用邸の内部=2015年9月
日光田母沢御用邸記念公園を散策される上皇ご夫妻=2024年5月、栃木県日光市