ニューヨークには規模は小さいが「知る人ぞ知る」老舗企業がある。革ジャン専門メーカーの「ショット」もその1つ。今から104年前の1913年(大正2年)にロシアから移民したユダヤ系のアービンとジャックのショット兄弟が創業した。
ローワーイーストサイドの衣料品街(今もオーチャード街あたりに名残がある)で皮革製のレインコートを作って細々と訪問販売をしていたが、20年に転機が訪れる。オートバイで有名なハーレー・ダヴィッドソン社と組んだのだ。
ライダー用ジャケットを初めて製造販売
第一次世界大戦(1914〜18年)中、戦場での移動手段として威力を発揮したモーターバイクだが、軍事用バイクの50%以上を生産していたのが、かのハーレー。戦後はいち早く民間用の製造に乗り出し、20年には世界最大手に成長した。全米を網羅したハーレーの流通ルートに「またがって」ウエアを販売したショットは順調に売り上げを伸ばす一方で技術革新も怠らなかった。中でも画期的なイノベーションとされるのが、ボタンの代わりにジッパーで開け閉めするジャケット。利便性とデザインで世界をあっと言わせた。
この技術を使って28年に初めてモーターバイクのライダー用ジャケットを売り出す。アービンの大好きだったキューバ葉巻にちなんで「パルフェクト」と命名。今までにない頑丈で男気のあるメンズウエアとして当時の若者のハートをわしづかみにした。バイクが持つ危うくてアドベンチャラスなイメージとぴったり合致したのだ。
30年5月にはニュージャージー州に工場を移転。40年代にはバイク用ジャケットの最大手銘柄としてその地位を確立した。
第二次大戦ではボマージャケットを
ところが、41年に2度目の大戦が勃発すると、戦時体制で生産方針がガラリと変わる。米陸軍航空隊から発注を受けたアービンは、主力製品だったライダーズジャケットの製造ラインを全て停止して、爆撃機乗員用のジャケットの生産に専念する。いわゆる「ボマージャケット」のハシリだが、成層圏や対流圏といった過酷な高度で戦闘員を防護する機能も担うと同時に、士気高揚のために見た目も良くなければならない。そこは、ライダーズで百戦錬磨のショットだけに、民生用で蓄えたノウハウを全て投入。最上級の羊革を使い、毛皮のライニングを施したショットのボマージャケットは気密と保温に優れ、着心地とスタイルも良かったため軍隊でも人気の的だった。
第二次世界大戦中には、アービンの息子メルが応召で太平洋戦線に出兵。硫黄島の戦闘に参加して名誉の負傷を受けた。戦後1年もハワイで療養生活を強いられたというからかなりの重傷だ。とはいえ、ショット本体は無事終戦を迎え、再び民生用製品の製造が始まった。
第一次大戦によるバイク景気でライダーズジャケット。第二次大戦時の爆撃機でボマージャケット。うがった見方をすると「戦争に支えられて成長した会社」のイメージだが、実は、時代の波に乗りながら、目ざとくビジネスチャンスを切り開いてゆくのがアービンの商才であり、ショットの底力のような気がする。というのも、ショットの社運は、戦後の平和時においても見事に花開いたからだ。
けがの治療を終えたメルは復員後、大学に戻って2年で学位を取り、父親の会社に正式に就職。結婚もした。御大のアービンは相変わらず、製造ラインに厳しい目を配っていたものの、経営の中心は新しい世代に移りつつあった。当時、メルたちが押し出したのが、人気型番「613」の中でも、エポーレット(肩章)に「一つ星」のスタッドをつけた通称「ワンスター」と呼ばれる商品だ。
次回は、「ワンスター」が切り開いた新しい革ジャンの時代について書く。
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Schott NYC
正式名称はSchott NYC。1913年ニューヨーク市マンハッタン区で創業。皮革製のジャケットに初めてシッパーを採用し、ライダー用ジャケットを開発。以降、世界中の革ジャンマニアを虜にしてきた。「Perfecto Motorcycle Jacket」と命名されたラーダーズジャケットは1953年の映画「乱暴者」でマーロン・ブランドが着用するなどして一大ブームに。第二次世界大戦中は米軍の、戦後は警察のユニフォームを製造。1世紀を経ても創業家が経営している。
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取材・文/中村英雄 映像ディレクター。ニューヨーク在住26年。人物、歴史、科学、スポーツ、音楽、医療など多彩な分野のドキュメンタリー番組を手掛ける。主な制作番組に「すばらしい世界旅行」(NTV)、「住めば地球」(朝日放送)、「ニューヨーカーズ」(NHK)、「報道ステーション」(テレビ朝日)、「プラス10」(BSジャパン)などがある。